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一見するとごく普通の石碑かもしれないけれど、昔から人や荷物などが行き交い、牛や馬が人々の生活に身近な存在だった時代の面影を残す石碑、といえるかもしれません。松本市内に設置されている『旧町名標識(旧町名碑)』は、江戸時代末期の町や通りの名を記した四角い柱状の石碑、昭和初期の旧町名を記した板状の石碑があり、市街地の中心部に124箇所、全体としては約130箇所に設置されています。分類が史跡となっていますが、石碑自体に歴史的な価値があるというものではなく、松本市内にある町や通りの由来や歴史といった形のないものについて解説した案内板のようなもの、ということになると思います。そんなわけで、『緑橋』のすぐ南、『相野田医院』の建物から東の歩道に立つのが『旧町名碑 博労町』で、『博労町は松本城下の南出入り口に位置し、枝町十町の一つで、本町に属していた。本町とは袖留橋(現緑橋)を境とし、南の端には十王堂が置かれていた。古くは貢馬を集めて置いた所で馬町とか馬喰町といわれたが、元禄六年(一六九三)、博労町に改められた。』と記されています(松本市ウェブサイトにあるpdfファイル「旧町名標識 一覧表」より) 。松本市内に存在した「博労町(ばくろうまち)」は、馬の売買を行う馬市(うまいち)が立ち、博労衆(ばくろうしゅう)と呼ばれる人々が多く住む町人の町で、善光寺街道に沿って陸路で運ばれてくる荷物の積み降ろしなども行われていたといいます。ちなみに、貢馬(こうば・くめ)というのは幕府から朝廷へ献上する馬のことで、諸家から集めた馬を幕府の将軍が内覧し、内覧を経てから京の都の朝廷へ献上されていたそうなので、少なくとも鎌倉時代から室町時代辺りには存在していたようです。城下町松本の町人の町としての起源は、天正(てんしょう)10年から天正18年(1582年~1590年)までの最後の深志城主であった小笠原貞慶(おがさわら さだよし)の時代にさかのぼるといいます。天正10年(1582年)、戦国武将として有名な甲斐国の武田氏の滅亡をきっかけに、天文19年(1550年)の松本盆地侵攻から32年に渡って支配され続けた松本の領地は再び小笠原家の本拠地となり、後に松本城となる深志城の拡張と、枝町十町をはじめとする区画整理と城下町としての整備が進められました。石碑にある『枝町十町』とは、親町と呼ばれる「本町」「中町」「東町」に属する10の町のことで、武家が住む区域と町人が住む区域を区別するために割り当てられたもの。女鳥羽川の南側、現在の本町通り沿いにあった本町に属する「伊勢町」と「馬喰町」、現在の中町通り沿いにあった中町に属する「飯田町」「宮村町」「小池町」、松本城の東と北、国道143号線沿い(松本城公園の東側)にあった東町に属する「和泉町」「安原町」「上横田町」「下横田町」「山家小路(後の鍛治町)」で、南の端にあるのが「馬喰町」、1693年(元禄6年)以降の「博労町」です。町の名前になっている「ばくろう(馬喰・博労・伯楽)」というのは、現在では都道府県から家畜商の免許を交付された人々の俗称なのだそうですが、元々は馬や牛の売買と世話をする人々のことで、現在の獣医師や調教師の役目をも兼ねていました。鎌倉時代から江戸時代末までの牛や馬は食肉用ではなく使役用で、軍馬として戦の時に人や物資を運んだり、農耕馬や耕牛として農作業に使われたり、荷馬(にうま)や駄馬(だうま)などとして各都市へ荷物を運んだりする時に利用され、馬や牛を引いて各地の市場へ向かう博労衆の姿もよく見られたといいます。街中で牛や馬を見る機会がなくなっているので、石碑を見ただけではピンとこないかもしれないけど、興味がある人は訪ねていただきたい場所です。[参考資料]「城下町松本を歩こう (南コース)」および「松本城下の各町」 松本城管理事務所ウェブサイト『国宝 松本城』より『旧町名標識を巡るウオーキングをしてみませんか?』『旧町名標識 一覧表』(pdfファイル)松本市ウェブサイトより。