家康ゆかりの地で歴史を感じる。
遍照山 光明寺の特徴
織田信長と徳川家康の伝説が息づくお寺です。
1563年、清洲城での攻守同盟が結ばれた地です。
徳川家康ゆかりの光明寺で歴史に触れられます。
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徳川家康ゆかりの地。
名前 |
遍照山 光明寺 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
0586-78-0547 |
住所 |
|
評価 |
4.2 |
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信長がほしがり・家康が得た軍法この地に伝わる伝説によると、桶狭間の戦いの後の1563年、織田信長と松平元康(徳川家康)は攻守同盟を清洲城で締結、この後酒盛り開かれた。織田信長は酔い覚ましにと、松平元康とともに馬を走らせ、光明寺城へ向かいました。この城から北にある稲葉山城を見た二人は、「美濃を制する者が天下を制するか」とつぶやいたという。織田信長は松平元康に、光明寺城の眼下にある安照院光明寺の僧侶、青井意足(伊束法師)を紹介した。この伊束法師は八幡太郎義家の軍法を伝える人物であり、織田信長もこの軍法を手に入れたかったのだが、織田家が平家の出の為、断られていたのであった。信長は同盟締結の礼として、源氏の出である元康を伊束法師に紹介したのであった。元康は数日間、光明寺に滞在し、青井意足より八幡太郎義家の軍法を授かったといいます。伊束法師は、元康に、この軍法を継ぐ者は名前に“義”か“家”を継ぐ事になっていることをつたえました。元康は、桶狭間の戦いを期に、今川義元からもらった名前を変えたいと考えていたいました。伊束法師の発案に従い“元”を“家”に変え、徳川家康を名乗るようになったといいます。伊束法師は、豊前(大分県)宇佐郡の生まれ、もしくは織田信長の家臣、神戸家の出身とされています。若き信長が寵遇した、数少ない軍師でした。軍師といっても、当時の役割は、呪術的なもので、戦勝祈願の加持祈禱(きとう)や、観天望気(かんてんぼうき)、すなわち、いまでいう、天気予報で戦を勝利に導くというものでした。あの桶狭間の戦いの際、伊束法師が占い、当日の大雨を予想し言い当て、合戦を信長軍の勝利に導いたとされています。信長が欲しがり、家康が得た軍法は、どのような軍法だったのでしょうか。