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名前 |
本宗寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0564-51-7497 |
住所 |
|
評価 |
4.0 |
住職さんに色々お話を伺い、本宗寺の案内(由緒)を一枚頂きました。以下の案内を中心に・・・1465年1月10日蓮如51才の折、賦課をめぐる対立で叡山延暦寺約500の僧徒が大挙して大谷本廟を破却しました。宗祖の御尊影をムシロに包み木の間に隠し、難を逃れました。その後、仮住まいをしていた蓮如は上宮寺の如光の請いにより、三河をの国を巡化され、都との要路にあった土呂の地を選び1468年この土呂の地に蓮如上人(本願寺)が本宗寺(「土呂御坊」と呼ばれる)を創設し、巡化の拠点としました。1475頃には本宗寺を中心に美しい町並みが出現していたといわれています。しかも、自然の地形を利用して周囲に土塀や壕をはり巡らし、寺院を中心に形成された城郭のような都市がです。その寺地は東西は西後堂山より小畠山に10丁(約1090m)、南北に8丁(870m)に至る広大なものであったと伝えられられています。そして、本宗寺の院主には、蓮如上人の子孫が代々その職を継いでいきました。本宗寺の門前には地方大坊主の上宮寺(じょうぐうじ・岡崎市上佐々木町)・本證寺(安城市野寺町)・勝鬘寺(岡崎市針崎町)の掛所(本寺の出張所)や、浄妙寺・蓮台寺・京福寺・慈光寺・神宮寺・浄泉寺などの寺と、民家は1200を数え、町並みは東西8町、計16町に分かれていて、壮大な「土呂御坊」が出現していました。土呂御坊を囲むように1200余軒の民家が立ち並ぶこの地方の都的存在であったことから「都の路」=「都路(とろ)」と呼ばれ、また土呂は大変繁盛していて、村の出入り口が十一ヶ所もあったそうです。そのため、「土呂」を「都路」と呼ばれました。勿論、多くの職人や商人も住んでいて、市も開かれ、法話を聞くためだけでなく、物が盛んに売り買いされ、多くの人々が押し寄せていました。初めて来た者はあまりの町の賑やかさと甍(いらか)の数々の美しさにたいそう驚かれました。(岡崎城下より繁栄していたとも言われていました。)領主からは、本院と上宮寺・本証寺・勝鬘寺などの7か寺の不介入・緒役免除などの寺内特権も認められていました。その後、一向一揆で炎上、壊滅するまで約一世紀続いたのです。1560年、家康が岡崎城に帰城、家康が時々鷹狩りに出た際、佐々木上宮寺で貯蔵されていた米俵に目を付けたことから発展し、1563年三河一向一揆が勃発しました。1564年に両軍の和議が整いましたが、本宗寺(証専)と家康と折り合わず、2月28日石川日向家成を先陣として攻め入られ、本多平八郎忠勝の一番槍で柵を破られてしまい本宗寺をはじめ土呂の町屋に至るまで、ことごとく兵火に遭い、領土は退転衰亡の悲運をたどりました。続いて本證寺、上宮寺、勝鬘寺も兵火を受け三河の地は修羅場と化しました。時に家康25才のことでした。農民や武士はおろか家康の家臣にも相当の信仰者がおり、これは松平(徳川)家臣団でも元康方と一揆方に分かれて戦ったという、家臣団をも分断した戦いでしたまた、そこに家康をよく思っていない領主なども加わり、三方ヶ原の戦いや神君伊賀越えと並び立つ家康三大の危機のひとつとして語り継がれる出来事だったのです。本願寺系寺院をようやく放免したのは1583年、松月院妙春尼が願い出からでした。松月院妙春尼は石川芸守清兼の後室で家康の近臣石川日向守家成りの母であり、家康の母於大とは姉妹であり、家康の乳母も勤めた女性でした。ですから、家康に強い影響力を持っていたと同時に熱心な本願寺門徒であり、三河の僧侶衆が退去中、代わりに国内に残った門徒宗を束ねる役割を担っていたのです。1584年、本願寺の門徒に道場と寺院の再建が許されます。その間、20年の歳月が流れました。上宮寺・本証寺・勝鬘寺は「旧地」にて復興を果たしましたが、本宗寺の復興は一家衆寺院のためと証専に帰郷復興の意志が無かった故、旧地再興の夢は断たれました。その後、琢如上人の時本願寺は、一家衆として伊勢国射和 本宗寺(松阪市射和町)を復興させました。伊勢国射和 本宗寺の勝詮は土呂本宗寺を再建し史跡の保存を目的として現地の一部に寺地を得て、土呂本宗寺と名乗り小堂を結んで、その史実を留めようめようとしました。それがこの今の本宗寺です。(※美合では土呂本宗寺として復興しています。)