水田の中の歴史、こべきじんじゃ。
小戸木神社の特徴
雲出川の東側低地に佇む小さな神社です。
農道を進むとたどり着く、森に囲まれた神社です。
県道15号脇の隠れ家的なスポットです。
小戸木神社(こべき じんじゃ)御祭神は応神天皇(品陀和氣命)御配神は罔象女神(水神)御由緒書きより「創建は不詳で場所も何度か遷されていますが、寛文十年(1670)久居開闢の際に小戸木村にあった八幡宮を久居城下町の鬼門(久居二ノ町)に遷して、久居八幡宮と称したのが古文書から窺うことができます。昔から小戸木を久居八幡宮の古氏子と呼んでいるのがその由縁です。また久居八幡宮の元宮とも言われています。左隣にあるのは水神さま(罔象女神)の石祠であり、雲出川等の氾濫がないようにお祀りされています。また寛政六年(1794)に寄進された石燈篭と久居藩の江戸屋敷内でお祀りしたのが八幡大神と罔象女神であったことから昔から久居の人々の信仰を集めてきたことが窺えます。」写真を観て貰えればご理解いただけると思いますがこの神社に至る道は未舗装なので車で行ける場所と思わない方が良いです。轍が凄くて車の腹が擦れると思い途中から歩いて行きました。
こべきじんじゃ。久居八幡宮の元宮と呼ばれ古くから雲出川の水辺に鎮座していた神社。周囲一面を田畑が広がる中にポツンと林が茂っています。農道なので道幅が狭く路面の状態もよくないです。車で行くのは諦めて歩いて訪れた方が無難です。境内には小さな社と石祠が並んでいます。創建年代は不明ですが社は八幡神らしく寛文十年(1670年)に当社の御神霊を元に久居八幡宮を創建された事からそれ以前から存在していた事になります。石祠には水の祖神である罔象女神(みづはのめのかみ)が祀られています。川辺の農耕地に祀られていた事から川を鎮める治水の神、農耕の神として尊崇されていたのでしょう。
水田、畑の中に浮かぶこんもりとした森、といった感じの神社です。行こうとすると、途中の道が舗装されていなくて少々難儀します。久居八幡宮(旧野辺野神社)と関連のある神社の様で、先代宮司様の名前の入った石碑が有ったり、本殿には現在の禰宜様による小戸木神社の説明書きが張られていたりします。
雲出川の流れる東側の低地の畑の中にある小さな神社です。幼少時から何であんなところに神社があるのか不思議に感じてましたが、初めて訪れてみました。社に貼られた久居八幡宮の宮司さんの説明によると久居八幡宮のルーツのようです。雲出川の氾濫や藤堂家により翻弄され何度も場所を変えているようです。社の左には水神様があり氾濫が多かったこの地を守っています。
神社までの道が、途中から舗装されていない農道です。ひっそり静かな林の中の神社です。水神様がいらっしゃいます。
県道15号の脇道を斜めに下って、用水路を渡ります。伊勢自動車道の高架を正面に見ながら、舗装された田んぼの間の農道を進んで行くと、南西方向に、こんもりとした小さな森が見えます。車で行けなくもないですが、田畑の中にあり、回りが農道なので、地元の人たちの邪魔にならないよう配慮が必要です。鳥居をくぐって正面に本殿、その左手に少し小ぶりの鳥居とお社があります。そこには、田んぼの中にある神社だからか、水神様が祀られています。神社の周りには桜が植えられており、春はきれいな花が見られます。
県道15号の脇道を斜めに下って、用水路を渡ります。伊勢自動車道の高架を正面に見ながら、舗装された田んぼの間の農道を進んで行くと、南西方向に、こんもりとした小さな森が見えます。車で行けなくもないですが、田畑の中にあり、回りが農道なので、地元の人たちの邪魔にならないよう配慮が必要です。鳥居をくぐって正面に本殿、その左手に少し小ぶりの鳥居とお社があります。そこには、田んぼの中にある神社だからか、水神様が祀られています。神社の周りには桜が植えられており、春はきれいな花が見られます。
| 名前 |
小戸木神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.4 |
| 住所 |
|
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久居地域の史跡を適当に巡っていた時、どういうきっかけか忘れましたが訪れた神社です。神社自体は無人の小さな神社なのですが、特筆すべきは、向かって左側にある記念碑です。篆額が上野英三郎博士によるもので、たまたま直前に氏の墓参りをしたこともあって、偶然に大変驚いたものです。また、氏のWikipediaには、「三重県津市久居小戸木町の小戸木神社には上野博士の記念碑が在る。」と誤解を招きかねない表現がありますが(2025/08/17現在)、正しくは地域の歴史を記した記念碑の篆額の揮毫をしたという形です。以下、拙いながらも意訳です。『農学博士・上野英三郎が篆書の題字を揮毫した。小戸木村は、もとは川島村と呼ばれ、雲出川のほとり現在の古屋敷にあった。しかし当時、川の氾濫を恐れて本村(※)の一隅に移り住み、すでに二百五十余年を経て今に至っている。明治21年に自治制が布かれ町村合併が行われた際、旧村名はすべて「大字」と称された。ただ小戸木の地籍は本村に属したため「小戸木」という名を冠することはできなかった。これを嘆いた郷人、海津九藏、同族の淺吉・常吉、稲垣甚吉、同族の貞次、村林竹次郎、飯田庄吉、池田保松、三井彌三郎、松下定次郎らは言った。「郷土の名とは祖先の功績を示すしるしである。今この名を失ったまま顧みなければ、いかにして地下の祖先に顔向けできようか。」そこで奮然と決意し、屋敷を小戸木の字中島や池之端に移して、その郷名を存続させたという。この年、郷人たちは相はかって碑を建て、その由来を記し後世に伝えようとした。私にその文を託されたので、ここに記し、さらに銘を添える。郷の名を大切にし、労苦をいとわず、一家そろって新たな土地へ移り住んだ。東南の丘のふもと、雲出川の南岸に、農は豊かに実り、祖先の業績は輝きを増し、一族の幸せは広がり、山のように高く、水のように長く、繁栄は続いていく。大正13年9月この文章は中村浅が作り、自ら筆を執って記した。』※本村(もとむら)は三重県一志郡にあった村。現在の津市の東部、久居市街の北・東・南を取り囲む区域にあたる。上野博士が亡くなる一年ほど前の揮毫であり、その意味でも貴重な遺跡といえるのではないでしょうか。私は農道のような未舗装の道を軽自動車で近くまで入ることができました。普通車でも注意すれば入れると思いますが、離合は厳しいかもしれません。ただし見通しは比較的良い道でした。