伊勢の偉人、谷川士清旧宅。
谷川士清旧宅の特徴
無料で丁寧な説明を受けることができ、感謝の気持ちが湧きました。
谷川士清が創った本格的な国語辞典に触れ、その偉業を改めて実感しました。
津市の歴史に名を刻んだ偉人、谷川士清の軌跡を知れて良かったです。
2025年8月訪問津駅に向かう途中、古風な建物を見つけたので立ち寄ってみると、『谷川士清旧宅』の文字が。下にあった「無料」に惹かれて中へ入りました。受付の方がとても丁寧に案内してくださり、時間があればぜひお願いするのがおすすめです。谷川士清氏は、五十音順で辞書を編んだ最初の人物であり、『日本書紀』の注釈・解説も行った素晴らしい学者とのこと。とても勉強になりました。歴史の中には、まだまだ知らない偉人がいるのだと実感した機会になりました。すぐ近くの『大岡屋』さんと言う和菓子屋さんには、谷川士清にちなんだお菓子が売られています。
2025/8 訪問入場料等は無料です駐車場はDCM、ヤマナカ向かいの新町会館の駐車場が使えるようです市の管理なので停めて良いそうです近くにあった駐車場は無くなったそうなので新町会館に停めて歩いてきましょう前の道路は狭いので路駐はやめましょう津市の国学者あいうえおの五十音順の国語辞典を作った元祖日本書紀の解読等谷川士清(たにかわ ことすが)の旧宅です町医者(漢方医、産婦人科医等)をしながら独学で日本書紀を解読したりと色々と知識人であったみたいです国語辞典の元祖の和訓栞は遺族に受け継がれて没後に完成品刊行されたそうです今はコピー機もパソコンもあるので誰でもちょっとしたものは簡単に作れますが当時は紙も印刷も高く出版するための資金捻出が厳しくここ旧宅だったり出版印刷の権利等様々な物を売り払ったそうです昭和42年に史跡認定され改修、整備され昔ながらの長屋住宅として現在は一般公開となります土間部分だったりふすまや柱、2階部分、瓦復元には当時の技術が扱える技術者がほぼ存在しなかったらしく相当頭を抱えられながら復元したみたいです歴史的な民家の建造物の造りをメジャーを持って見に来る学生もいるそうです階段もありますが当時は外せる梯子で2階に上がれるような造りだったみたいで改修の時に階段を設置したようです松阪の松浦武四郎の生家は梯子で2階に登る造りが残っていたので聞いてみたらここもそうだったようです建物と敷地は当時の半分ほどしかないそうです(隣の長屋は所有者別)建物を横から鬼瓦部分を見ると水のマークがあり火避けの意味があるようです刊行書物が燃えたり私物を売ったりで資料が少なく本居宣長等の偉人と比べると有名ではないですが先駆者としての国人を貫いた方なんだと思います長い時間説明にお時間いただいたスタッフの方ありがとうございました。
入場は無料です、ボランティアの方と思いますが丁寧に説明して頂きました、恐縮してしまいます。
以前から気になっていたので、散歩も兼ねて訪れてみました。色々説明を聴かせてもらい、ちょっとした質問にも丁寧に応えて頂き大変勉強になりました。
無料で申し訳なくなるほど丁寧に解説してくださいました。
お正月にいったら閉館でした。家の前に史跡碑と「旧町名八町」の由来碑があります。国史跡。
日本で、「初めての本格的な国語辞典」を作った医者、神学者、教育者でもあって21歳年下の松阪の本居宣長をして「国語学の猿田彦(導きの神)と称賛せしめた偉人。来年編纂1300周年記念を迎える「日本書紀」についても「日本書紀通証」で通釈。
立ち寄ってよかった 谷川さんの偉大な軌跡が見れた。
津が生んだ偉人だが、まったく知られていない。本居宣長より知られてよい人物。建物自体も、土間があり昔ながらの住宅として貴重。
| 名前 |
谷川士清旧宅 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[水木金土日火] 9:30~16:00 |
| HP |
http://www.info.city.tsu.mie.jp/www/contents/1001000011073/index.html |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
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谷川士清旧宅(たにがわことすがきゅうたく)国指定史跡谷川士清(1709~1776)は、伊勢の生んだ二大国学者の一人で、本居宣長と並び称される学者です。士清は、宝永6年(1709)八町で町医を営む谷川義章の長男として生まれました。幼い頃から家業を継ぐため勉学に励み、さらに一人前の医者になるため享保15年(1730)頃からおよそ5年間京都に遊学しました。京都では本草家松岡玄達から本草学・儒学などを学び、垂加神道を神道家松岡忠良に、次いで松岡忠良の師玉木正英に入門し「神道許状」を受けました。医学は、医の宗家福井丹波守に学び医師免許を受け、本格的に学問を修めた後、享保20年(1735)8月津に帰郷しました。京都から帰った士清は、医者の号を「養順」、号を「淡斎」と称して父の跡を継いで医者となり、地域・近郊の人々の信頼を受けていました。医業のかたわら学問にもうちこみ、慕ってくる人々のために家塾「洞津谷川塾」を開き、また近隣に「森陰社」(振々霊社)という道場を設け、多くの人々を教えたと伝えられています。士清自身の研究による著書として、宝暦元年(1751)には20年あまりかけて研究した日本書紀の注釈書「日本書紀通証」(全35巻)を完成させ、世間の学者を驚かせました。特に第1巻附録の「和語通音」は動詞の活用図表で、それを見た本居宣長はその学識にうたれ、以後手紙を交わして交友が始まりました。また士清の偉業に、わが国最初の五十音順にならべられた国語辞典、「和訓栞」(全93巻)をまとめたことが挙げられます。士清は晩年、安永4年(1775)に「反古塚」(市指定史跡)を建てています。これは、後世に自分の説が誤って伝わることがないように、これまで自分が書いて不用になったメモや下書き(反古)を埋めたといわれています。しかしその翌年安永5年、大著『和訓栞』の出版にとりかかる矢先に不幸にも病のため、亡くなってしまいました。士清は、生家にほど近い福蔵寺に葬られ、現在その墓碑は国史跡の境界石柱で囲まれています。また、生家は「谷川士清旧宅」(として一般に公開されています。