大阪城近くの大村益次郎碑。
兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑の特徴
上町交差点北西角に、歴史的な石碑が立つ場所です。
司馬遼太郎の著作『花神』に登場する大村益次郎の遺跡です。
松下幸之助の名前も刻まれた、興味深い史跡ここにあり。
道端にポツンとある記念碑。由来は知らない。
今日はふと足を止めて「兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑」を訪れてみた。静かな場所にひっそりと建つこの碑は、幕末から明治にかけての日本の転換期を支えた大村益次郎の偉業と、その最期を偲ばせるものだった。歴史の教科書で名前を見た程度だったけど、実際にその功績がこうして形になっているのを見ると、胸にぐっとくるものがある。周囲は落ち着いた雰囲気で、都会の喧騒を忘れて心静かに歴史と向き合える貴重な時間だった。歴史好きにはもちろん、少しでも日本の歩みに興味がある人には一度訪れてほしい場所だ。
大阪城近くです。
大阪医療センター、南側かどにある巨大な碑、北側の医療センターには、陸軍や天皇関係の碑がありました。
たまたま見つけた。大村益次郎は好きな歴史上の人物なので、感慨深い。
大村益次郎 (文政8年5月3日〈新暦なら1825年6月18日〉~明治2年11月5日〈1869年12月7日〉)は、現山口県防府市の農家に生まれた(山口県で近くに住む叔父さんから聴いた)が、幼年時代から頭脳明晰だった。その為に、周防国吉敷郡鋳銭司(すぜんじ)村字大村(現在の山口県山口市鋳銭司)の村医(藩医と聞いた)・村田孝益と妻・うめの長男として、村田家に養子に入る。慶應4年の戊辰戦争で、長州・薩摩・土佐を中核とした連合新政府軍の臨時軍司令官(東征大総督府補佐)になり、兵器・金銭的に優位に立つ幕府軍を破る。大日本帝国軍(陸・海ともに)建設の創始者と言われる。戦略的・戦術的に優れた物を編み出し、他人に真似の出来ない才能の持ち主であった。弟子たちにはその後軍関係で活躍する物も多かった。功績は大きい。明治2年、京都宇治に火薬製造所を、また大阪に造兵廠(大阪砲兵工廠)を建設する決定にも大きな役割を果たしていた。同年9月4日夕刻、益次郎は京都の旅館で教え子と会食中、元長州藩士の団伸二郎、神代直人ら8人の刺客に襲われる。益次郎は数か所の重傷を負う。右膝の疵が動脈から骨に達するほど深手であった。益次郎襲撃の理由が兵制を中心とした急進的な変革に対する強い反感にあった。益次郎は一命をとりとめたが、数日間の治療を受けた後、傷口から菌が入り敗血症となる。ボードウィン、緒方惟準らの治療を受け、浪華假病院(現大福寺境内、後の国立大阪病院)に入院する。楠本イネや娘の阿高らの看護を受けるが病状は好転せず、蘭医ボードウィンによる左大腿部切断手術を受けることとなるが、調整に手間取り手遅れとなっていた。手術を受けるも、11月1日に敗血症による高熱を発して容態が悪化し5日の夜に死去した。享年45。紀元2600年の節目にあたる昭和15年に、大村益次郎の殉難と、近代日本兵制の整備の功績を顕彰する、として、政財界や陸海軍幹部、関西を中心にした名士が、数多く賛同し、大村卿遺徳顕彰會が結成され、終焉の地として建立された。中央に約12mの石碑がそびえ、左側には銘文が埋め込まれ、右側には、大村益次郎が刀をさし、和装でありながら西洋風の襦袢を穿いて書を読む姿が埋め込まれている。碑を左右から囲むように発起人並(ならびに)発起人黨(「とう」と読む、党と同意)賛助者氏名がいろは順で右から左へ明記されている。その数は88名を数え、政財界や陸海軍の要人、大阪や関西を中心にした錚々たる名士が参加している。伊藤文吉(伊藤博文実子)、伊藤忠兵衛(伊藤忠財閥の二代目)・伊藤竹之助(伊藤忠商事社長)・鋳谷正輔(川崎汽船・川崎重工業・川崎航空機工業の社長)・岩松義雄(陸軍中将)・稲畑勝太郎(染料・薬品会社の社長)・今西與三郎(阪神電鉄取締役)・池田清(大阪府知事・貴族院議員)・飯島茂(陸軍軍医総監)・飯田直次郎(高島屋社長)・井上清介(大村益次郎先生小伝の著者)・六角三郎(大阪鉄工所社長)・畑俊六(陸軍大将・偕行社会長)・林銑十郎(陸軍大将・内閣総理大臣)・濱崎照通(大阪機械製作所取締役)・堀啓次郎(大阪商船社長・阪神電気鉄道社長)・東條英機(陸軍大将・内閣総理大臣)・鳥井信治郎(サントリー創業者)・小倉正恒(住友総理事・大蔵大臣)・小畑源之助(日本ペイント社長)・緒方銈次郎(緒方医院内科部長・緒方洪庵実子)・種田虎雄(近鉄社長)・大島健一(陸軍中将・陸軍大臣)・大林義雄(大林組社長)・岡田永太郎(大阪商船社長)・奥信一(海軍中将)・奥村信太郎(毎日新聞社社長)・及川古志郎(海軍大将)・河田嗣郎(経済学者・大阪商科大学 現大阪公立大学 初代学長)・片岡安(大阪工業会会長・商工識所会頭)・田中太介(近畿車輌創業者)・ 谷壽夫(陸軍中将)・髙𣘺三吉(連合艦隊司令長官)・高橋達之助(東洋製罐社長)・・・(この項書きかけ)
上町筋の上町交差点北西角に兵部大輔大村益次郎卿殉難報国の碑がある。大村益次郎は元長州の村医者村田蔵六。医学、蘭学を大阪の適塾にて緒方洪庵の下で学ぶ。その後長州藩に見出されあれよあれよと言う間に長州征伐、戊辰戦争では戦闘の中核として働き、明治政府では陸軍基礎を作り上げた。靖国神社の創建にも深く関わり靖国神社の前には大きな銅像が建っている。士族の反発も強く京都で刺客に襲われ大阪の病院で療養中に亡くなった。この碑はその病院跡地近くに建てられている。一介の村医者から兵部大輔となり日本の明治維新を成し遂げた人物。もっと評価されて良いと思うのは私だけだろうか?
司馬遼太郎の「花神」(大河ドラマ作品)を読めば、この石碑の大きさが理解できます。
割りと立派。目立つ。
| 名前 |
兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑 |
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| ジャンル |
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| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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(2025年12月1日撮影)幕末から明治の初めにかけて主に軍事方面で活躍した方の碑です。碑は国立病院大阪医療センターの南東角にあり、上町筋を挟んだ東向かいには難波宮があります。