万葉集詠む真間の継橋。
真間の継橋の特徴
大門通りの手児奈霊堂手前に佇む赤い小さな橋です。
真間の地域は真間の入江として、昔の雰囲気が漂っています。
万葉集が編纂された奈良時代の歴史を感じる風情ある場所です。
何だか高知県のはりまや橋の様にちゃんと遺されていますね。謂れの書いた案内板もしっかり有ります。
2025.4.10(木)に朝から市川市内の桜鑑賞散策をしました🌸🌸🌸。弘法寺入口階段手前にある茶屋前の小さな橋では桜が満開でした。今日の桜巡りはここからスタートしました。
大門通りを弘法寺に向かって歩いて行くと、手児奈霊堂の入口の手前に赤い橋があるんだよね。何でこんな所に橋があるんだという感じなんだよね😵だって、川が流れている訳でもないんだよ😱それで、周辺を見てみると、ちゃんと説明の看板がありました😃真間には、海からの入江が広がっていて、州から州に行くには、橋が必要だったんだねぇ😅だから、当時は、あちこちにつぎ橋はあったんだねぇ😁その一つが、今の「真間の継橋」として残っているんだねぇ😲橋の下に川が流れていれば、風流がもっと増すと思うけど、今のままでも昔が偲ばれるなぁ☺️
橋の下に川は流れておらず短い橋の欄干に石碑と説明板があるだけです😺真間の土地は昔から真間の入江と呼ばれてきた海岸地帯でした。弥生時代から既に集落があったと考えられています。ヨシが生い茂った砂洲が広がり下総(しもうさ)の国府が置かれた国府台へ(こうのだい)向かうため砂洲を中継地として複数の板橋を掛け渡した事から継橋の名を得たそうです😺
きれいに残されてました。大切にされてるんですね。
小さな石橋で、地域の方々?が綺麗に管理されていると思いました。
土佐はりまや橋より、こちらの方が趣深し。
律令時代の関東地方の様子に興味を持ち始め、旧跡を訪ねてここに来ました。真間手児奈についてはよくわからないが、赤人や虫麻呂が歌に詠むということは、その名が都の官人にまで知られていたという何よりの証拠なのだから興味深い。国造の子女で嫁ぎ先と実家の紛争で引き戻されて生きるのが辛くなって身を投げたとか、未婚女性で多数の男性からの求愛を苦にして身を投げたとか、どちらもいまひとつ。私が思うには、朝廷から采女として出仕を求められたが意にあらず、再三の要求を拒むことで一族に害が及ぶのを苦にして身を投げた・・・ということではないだろうか。都でその名が知れるということは、都に報告しなければならない何かがあったに違いない。いずれにしても奈良の都ばかりか、1300年以上経った今でも語り継がれる美女とは、いったいどんな人だったのだろうか。
大門通りにある雰囲気のある小さな橋です。言われを聞いてさらに旅情を駆り立てられました。あくまで個人的な感想ですが、高知のはりまや橋の超ミニ版のような感じがしないでもないです。
| 名前 |
真間の継橋 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[土日月火水木金] 24時間営業 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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万葉集にも詠まれた「真間の継橋」 現在は橋の下に水が無い…というか川自体がありません。けれど、この地がかつて真間と呼ばれ、「真間の手児奈」の伝説と合わせて、歌枕にもなっていたことを示すという意味で、ありがたいな、と思います。真間とは、弘法寺のある国府台から続く急斜面や崖を意味する古語で、当時、下総の国府に向かう際に入江の砂州を複数の板橋で継いでいたとのこと。個人的には、砂州まで舟で行き、降りた後にお役所(国府)目指して渡るメインストリートであったので、歌川広重も名所江戸百景に取り上げる程の「あぁ、あそこね。」となったんだろうな、と愚考してます。ちなみに、地元の方にお聞きしたら、都からきた行基さま(668年〜749年)がかけた橋で、その継橋を一目見たいと多くの人々がやってきて、たくさんの歌を詠んだ、という伝説が残っているそうです。