朽木城跡で歴史を感じる。
朽木陣屋跡の特徴
滋賀県指定史跡で、広い空き地と土塁が魅力的です。
朽木氏の城跡からは、歴史を感じる石垣や井戸が見られます。
信長さんの逃げ道として知られる、懐かしさ溢れる場所です。
土塁、堀跡、井戸、石垣等の遺構が見られる。範囲は広く、現グランドも陣屋跡。資料館は閉館している。説明板、駐車場あり。(以下、現地説明板より引用)滋賀県指定史跡安曇川本流と支流の北川が合流する野尻に朽木陣屋跡は所在する。この地は若狭や越前などと京都とを結ぶ朽木街道に面し、軍事的・政治的・経済的に重要な交通の要衝でもある。朽木氏は佐々木氏の庶流で、承久の乱(十二) 後、朽木庄の地頭職に補任されたことにはじまり、関ヶ原の戦い、大坂の陣で戦功のあった朽木元綱以来、準大名格で当地を領有し、明治維新をむかえた。現在、陣屋跡を示す遺構は土塁跡、井戸跡と石垣、 堀跡などであるが、当時は敷地内に御殿、侍所、剣術道場、馬場、倉庫などが存在していたようである。昭和五十六・七年の発掘調査では上層から江戸時代の建 物跡を、下層からは室町時代の遺物包含層をそれぞれ 検出している。これらの調査成果から、中世には朽木氏の館が設け られ、江戸時代に陣屋へと変遷をとげたと推定できる。
朽木氏の室町後期の城、江戸時代交代寄合としての陣屋の跡。冠木門の中に井戸と古民家。郷土史料館は令和6年3月末で閉館。
画像の建屋は朽木陣屋の遺構ではありません。関ヶ原の戦いでは当初は西軍につくが、主戦場で小早川秀秋に同調して東軍に寝返る。徳川家康はその挙動に不信感を抱き本領の近江朽木は安堵したものの、その総石高は9550石と減封され、大名の家格ではなくなった。その後、朽木氏は交代寄合として遇されて、独自の陣屋を持つことを認められて大名に準じる扱いを受けた。
朽木と言う名は体を表すの如く、朽ち果てた雰囲気の場所です。
なぜか懐かしい気がする場所ですね。
金ケ崎から逃げてきた信長さんチェックでお参り 信長の隠れ砦までは行けなかった まぁ確かに逃げ道っぽい山の合間やなぁと。
古くから交通の要衝で朽木氏が治め、足利や織田信長が逃げ込んだのを保護したり、江戸時代に陣屋があった。遺構も少なく、併設してる資料館は予約が必要だったりあまり重要視されてない雰囲気。とりあえず実際に来ることによって場所を知れたから後悔はない。
朽木陣屋跡は朽木城🏯があった場所です。平成12年の調査で、前を通る道を整備するため、たまたま発見され、朽木城の位置が特定されています。周りを土塁で囲まれて、その外には池があり、それが堀であると発見されています。西側は北川、南側は安曇川本流でかこまれた、自然の要塞になっています。東西には堀切ものこっています。城主は朽木元綱で、佐々木氏の嫡流の高島七頭の一つで国は9500石で大名ではないでが、足利幕府の奉公衆になっています。この辺りは杣地区になっていて、材木の収入などで資金は豊富にあったとされています。地元の人は、昔は大きな杉が一本100万でうれていましたが、今は10万円になっているそうです。当時の100万円は高級外車が買える価値があったそうです。鎌倉時代から明治維新まで600年間同じ場所にありました。国替えなどで同じ場所にいるのは、大変珍しく、島津氏と朽木氏しかないそうです。地元の人は、朽木谷という険しい山地にあり、冬場は孤立する程の雪などがふり、地理的な要因があったのでは、ないかといわれていました。江戸時代には、北川の外に、城下町が整備されています。特徴的なのは、鍵曲(かいまがり)の道路があります。蔵を開ける鍵の形からきているそうで、直角に曲がっている道の形態があり、敵が攻めて来たときに、容易に入り込めない構造になってます。また立樋(たつどい)があり、山の水を2、3件の家に流すように煉瓦でできた、分水塔があります。分水塔に山水をいれてから、何件かの家に、ホースで流す仕組みになってます。アクセスはJR湖西線安曇川駅から江若バス🚌で30分朽木学校前下車し、直ぐです。
何もないよ。写真の二つ以外はホント何もない。一応資料館的なのがあるようですが、予約が必要。あえていくような場所じゃないね。鮎釣りとかのついでならちょっと寄っても良いかも。
名前 |
朽木陣屋跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
http://www.shiga-ec.ed.jp/www/contents/1438304524592/html/common/other/55d173d3073.pdf |
評価 |
2.8 |
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滋賀県指定史跡は..広~い空き地😅朝🌄早すぎて資料館が開いてなかったので西山城に登ってきまーす🙋って、資料館は閉館してたのね~🤣