恵曇漁港近く、神名火を望む。
惠曇神社の特徴
恵曇漁港近くに位置する歴史ある神社です。
大きなしめ縄が境内を彩り、神聖な雰囲気を醸し出します。
桜の季節には周囲が美しい桜で華やかに彩られます。
切妻造妻入り 一間×一間 階隠別棟 礎石建ち。
先日6月末に仮殿遷座祭が斎行されました。雨風の強い日でしたが、不思議と御祭の最中は穏やかでした。
恵曇港の近く南向きに鎮座されており、眺める先には神名火(朝日山)があります。広い境内の中には社殿が二つ並んでいます。左奥にも祠があり、小さな狛犬がいます。
創祀年代は不詳です。出雲国風土記に「恵杼毛社」と記載されている神社で、東約2kmのにある本郷の惠曇神社と当社が、式内論社となっています。祭神は、磐坂日子命(いわさかひこのみこと) 彦火火出見命(ひこほほでみのみこと) 豊玉姫命(とよたまひめのみこと) 玉依姫命(たまよりひめのみこと)です。磐坂日子命は素盞嗚尊の御子神です。彦火火出見命は天津彦根火瓊々杵尊(あまつひこねほのににぎのみこと)と木花開耶姫の御子です。豊玉姫命は、彦火火出見命の妻で、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を産みました。鵜葺草葺不合命は初代・神武天皇の父です。玉依毘売命は、鵜葺草葺不合命の妻で神武天皇の母です。海に近いため、佐侘大社の神在祭に佐陀の浦に集い給う神々は、まず当社で休息する言われています。風土記には「恵杼毛社」と「恵曇海邊社」が記されており当社は「恵曇海邊社」であると思われるため、「恵杼毛社」、つまり式内社・惠曇神社であることに私的に疑義を感じています。現在は、当社が明治五年、式内社・惠曇神社であると判断され郷社に列しています。
創立年代や由緒は不詳。733年編纂の出雲国風土記に恵曇海邊社と記される古社で磐坂日子命、彦火火出見命、豊玉姫命、玉依姫命を主祭神とします。随神門をくぐると大きな狛犬、続けて立派な拝殿(2つあり、双方とも「恵曇神社」の扁額でした)に大きな注連縄、そして何より龍や鳳凰の彫り物が見事で見ごたえがあります。明るい境内で気持ちよくお詣りさせていただきました。車の場合は漁港側に数台であれば問題なく停められるスペースがあります。*当社(鹿島町恵曇)から2kmほど東(鹿島町佐陀本郷)に同名の「恵曇神社(出雲風土記-恵杼毛社)」があり、地元民でない方は高い確率で混同します(私もそうでした)。「恵曇神社」は延喜式神名帳で表記されている神社名で元禄年間(1688〜1704)以降、どちらが式内社(延喜式内社)であったのか論争が続いていましたが明治初頭に鹿島町恵曇の惠曇神社が延喜式所載の恵曇神社であると当時の松江縣に認定されました→その後の研究で現在では佐陀本郷の恵曇神社を式内社とする見方が一般的になっており、島根県神社庁のHPも佐陀本郷の恵曇神社を「式内社 恵曇神社」としています(恵曇にある恵曇神社を式内社と表記する資料/HPが稀に見られるのは情報を切り取った時期が異なるためだと思われます)。式内社(=官社と呼ばれ、朝廷や国から幣帛もしくは幣帛料が支払われる神社)であるかどうかで神社の格や影響力が大きく変わるため当事者間や地域(氏子)には大きな問題であったと思われ、200年近い論争となりましたが、別の見方をすれば当時は神社(及び仏閣)が政治や地域社会に密接に関係しており、人々の生活に不可欠な要素の一つになっていたのだろうなと考えてしまいました。<アクセス難易度/~駐車場>★☆☆☆☆<アクセス難易度/駐車場~参道>★☆☆☆☆
佐太神社の奥の院?
【比定社】恵曇海邊社(えとものうみべのやしろ)【主祭神】磐坂日子命、彦火火出見命、豊玉姫命、玉依姫命【境内社】若宮神社【神 紋】二重亀甲2社ある海邊社。江角大明神と福浦弁財天社。
恵曇漁港近くの古くからある神社大きなしめ縄が素敵です。
この神社周辺で神輿担ぎながら御菓子撒く祭りがあったような?小さい頃の思い出なので曖昧ですが楽しかったなぁ。
| 名前 |
惠曇神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| HP |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-shimane/jsearch3shimane.php?jinjya=932023 |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
周辺のオススメ
恵曇神社(えともじんじゃ)。島根県松江市鹿島町恵曇。式内社(小)論社、旧郷社。【祭神】磐坂日子命(いわさかひこのみこと、須佐之男命の子) 火火出見命 豊玉姫命 玉依姫命(配祀)蛭子命 市杵島姫命 稲倉魂命 素盞嗚命資料によると、創祀年代は不詳。鎮座地名から江角大明神とも称されていた。式内社・惠曇神社の論社で、出雲国風土記記載の神社。ただし風土記には「恵杼毛社」と「恵曇海邊社」が記されており、当社は「恵曇海邊社」であると思われるため、「恵杼毛社」、つまり式内社・惠曇神社であることに疑問もある。江戸時代には、本郷の惠曇神社と式内社に関する論争もあったらしい。祭神・磐坂日子命は素盞嗚尊の御子神で、当地を治めていた地方神。海に近いため、佐侘大社の神在祭に、佐陀の浦に集い給う神々は、まず当社で休息するという。風土記には御子神がこの辺り至って、「国権美好有国の形 畫鞆(エトモ)如哉」と詔給いしことから恵曇(エトモ)と名づけらたという。畫鞆(エトモ)とは、素晴らしい景色を称賛した言葉で、「絵(畫)に描いた鞆(とも:弓を射る際に左手首につける道具)のようである」という意味。明治五年、式内社・惠曇神社であると判断され郷社に列した。とあります。