千人塚で感じる歴史の深み。
野々市原古戦場・千人塚史跡公園の特徴
激戦地の古戦場として訪れる価値がある場所です。
南方にある高さ230メートルの高尾城の近くです。
個人的な思い入れで足を運びたくなる史跡です。
天正年間の激しい合戦が偲ばれる。
天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐で、小早川隆景が率いる豊臣方の軍勢が伊予の新居郡に上陸した。これを迎え撃つ長宗我部方の武将は金子城主金子元宅で、自身は守護代石川氏の居城高峠城に入り、金子城には弟金子元春、さらに高尾城に高橋美濃守を入れて守りを固めた。小早川隆景の軍勢は金子城、続けて高尾城をも攻め落とした。高峠城の金子元宅はこれを見て城を焼き払い、手勢を率いて野々市が原に討って出て討死した。戦後小早川隆景は首級を実験し、これを千人塚として葬った。これが現在の野々市が原古戦場・千人塚の地であるという。今は公園として整備、管理されています。兵どもの夢の跡を感じます。
新居浜からやってきました。千人塚ともいい、野々市原合戦城跡でもあり。国道11号線沿いに案内支持板があり昔から行ってみたいと思っていた場所です。天正の陣の最終決着がついた最初で最後の野戦の場所です。金子備後守元宅(もといえ)など主だった武将が城を飛び出し二千の兵で三万の小早川勢に坑して華々しく散った場所。敵将小早川隆景も勇敢に戦った伊予金子勢の死者を手厚く弔ったといいます。それにしても合戦の行われた領域はどの場所のどの広さくらいだったのでしょうか?今ある場所はその中心地で死者を埋葬した場所なのでしょうが。そういえば、生子山城の松木河内守安村の墓碑もここにあります。そうか、彼もここで戦死したのですね。天正の陣についてもう少し勉強してみたくなりました。
激戦地の古戦場です。戦いに散った人々を弔うために作られた場所を首塚や千人塚と言います。このあたりは昔の史跡が数多く残っており、興味を引かれます。
ここから南方、高さ230メートルの所に高尾城があつたと云います。?焼き払われて無くなりました。跡が残つていませんか。?
野々市最高(^o^)
個人的な思い入れで訪問しました。当時の激戦を自分なりに想像すると、今の平和な世の中がとても有り難く思えます。
| 名前 |
野々市原古戦場・千人塚史跡公園 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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⸻千人塚(せんにんづか)について千人塚は「首塚(くびづか)」とも呼ばれ、野々市市の原古戦場にある中心的な史跡です。昭和45年に市の指定史跡となりました。この塚は、天正年間の戦いで亡くなった多くの武士たちを弔うために築かれたものです。戦いは初めから勝ち目のない厳しいものでしたが、郷土の武士たちは主君との約束や武士としての名誉を重んじ、勇敢に戦って命を落としました。小早川隆景は、討ち取った敵兵の首を一つにまとめて塚に埋め、「討つも討たれるも夢のようなものだ」と詠んで、ねんごろに葬ったと伝えられています。これが千人塚のはじまりです。⸻墓碑と刻まれている内容千人塚の墓碑には、次のようなことが刻まれています。• 正面には「千人塚霊位」とあり、仏教の胎蔵界大日如来を表す梵字が刻まれています。• 右側面には、天正13年7月の戦いと、小早川隆景の名が記されています。• 左側面には、明治11年に建立されたことや、願主が野々市の人々であることが刻まれています。• 背面には、地元の永井磯吉・金子虎平らの名前が見えます。墓碑のそばには五輪塔もあり、風化していますが文字が確認できます。明治時代に供養のため建てられたことがわかります。⸻周辺の様子と400年祭千人塚のそばには、昭和9年に350年祭を記念して建てられた石碑もあります。この石は中山川渓谷から牛車で運ばれたと伝えられています。また、墓前には難波江氏同族会から寄進された石燈籠もあります。難波江氏は、かつてこの地に関わりのあった一族の末裔です。昭和59年9月23日(秋分の日)には、「千人塚400年祭」が盛大に行われました。この記念事業として千人塚史跡公園が整備され、三原市などから供養塔が寄進されました。地元の人々や遺族、さらに高知県からも参列者が訪れ、式典が行われました。⸻千人塚は、戦国時代の激しい戦いで亡くなった人々を弔うために作られた歴史ある塚です。地元の人々によって大切に守られ、節目ごとに供養や記念行事が行われてきました。今もなお、地域の歴史と先人の思いを伝える大切な史跡となっています。金子備後守の塚について金子備後守の塚は、千人塚史跡公園のそばにあります。もともとは千人塚の近くにありましたが、千人塚400年祭のときに現在の場所へ移されました。この塚は、金子元宅の11代目の子孫である金子吉右エ門義豊が、慶応3年(1867年)10月に建てたものです。義豊は喜多川村の庄屋(村の代表)でした。金子備後守のお墓は、新居浜市の保国寺にあります。法名(戒名)は「慈眼寺殿威峯宗雄大居士」といいます。金子備後守は、天正13年(1585年)、地元の軍勢を率いて**高尾城**に立てこもり戦いました。そして7月17日、高尾城と運命を共にしました。現在の塚は、その高尾城の方角を向いて建てられています。⸻子孫について金子備後守の子孫は各地に広がっていますが、この地域では西条市船屋に住む金子八郎氏の家系が中心と伝えられています。その家には、昔の記録や家系図が残されています。藩政時代には、船屋村の庄屋を務めていました。一方で、白石友治氏は、船屋の金子家は「金子孫八郎家」や「備後守の弟・対馬守元春」を祖先とする家系ではないかと述べています。また、保国寺に伝わる『天正陣実録』には、「金子孫八郎は野々市原の戦いで活躍し、その後船屋に住んだ」と書かれています。しかし、はっきりとした証拠が残っていないため、天正の戦いについては詳しいことはまだよく分かっていません。