村田清風の生家で歴史を味わう。
村田清風旧宅(三隅山荘)の特徴
綺麗に掃除が行き届いている、歴史を感じる場所です。
村田清風の旧宅で、幕末の雰囲気を楽しめます。
私塾尊聖堂の近くで、おにぎりを味わえるスポットです。
綺麗に掃除が行き届いていて、私塾「尊聖堂」の前でお昼のおにぎりを食べました。財政改革をして豊かになったら、次は心を豊かにする教育改革が必要ですね。
長州藩の藩政改革の中心人物、村田清風の旧宅。閉まっていたので中まで覗くことはできませんでしたが、管理されている方のご好意で、簡単な説明と、庭の松についてお話ししていただきました。庭にある五葉の松は、平成12年の豪雪で枝が折れてしまったそうですが、元となる松は、早稲田の穴八幡宮(旧称は高田八幡宮)にあるとのことです。(その苗木を移植したものが、三隅山荘の松です)
6年前、「村田清風記念館」を見学した際に小道を挟んだ向かい側にありましたので、訪ねました。「清風」が生まれて青年期までを過ごした家であるとともに、藩政を引退し晩年を過ごした家でもあります。母屋は茅葺きの妻入り建物で簡素な武家住宅です。武家屋敷好きには必見だと思います。晩年、敷地の中に私塾「尊聖堂」を建設し、後進の育生に当たったそうです。「記念館」の展示にあったのですが、長門部?の私塾の分布図です。その多さに驚くとともに、「尊聖堂」が象徴しているように、萩藩が教育(人材育成)に力を注いだ効果の現れのような気がしました。後で調べたのですが、明治初頭、山口(防長二州)に私塾は105箇所ありました。これは、岡山、長野、東京に次いで第4位です。寺子屋は1,307箇所ありました。これは、長野に次いで第2位です。郷校(藩校に準ずる学館)は19校ありました。これは、第1位です。藩校及び郷校では、農町民も聴講を許されていたそうです。これは、防長二州に暮らす多くの庶民が読み書き算盤が出来ていた可能性を示唆しています。幕末、長州征討の際には200を超える諸隊があったと云われています。隊の統制がとれていたのは、隊中規則を読めたし、軍令を読んだり、複写できたりしたからだと思いました。又、新式の戦術や武器の教本を読むことができたので諸隊が強かったのだと思ったりもしました。
村田清風の生家です。
名前 |
村田清風旧宅(三隅山荘) |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.9 |
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幕末と言っても人流れ少ない山口県人にとってはつい、高曾祖父「各家庭により違うが」の時代。地「旧藩からの方」の方との会話(オーラルHISTORYの史実)は書籍より興味がある。7年前に行った際、土地の地の弁→つい15年前まで(今は24年前)民間人「居宅」が住んでおられたと聞いた。藩政時代から住んでおられる方が多い県-市で面白いがマナーを守って迷惑にならないように散策して下さい。