菊池武光公ゆかりの地、歴史に触れる旅。
菊池武光公 太刀洗伝承之地の特徴
熊本の武将に対抗した英雄がまつられている史跡です。
戦国時代の歴史を感じる特別な場所がここにあります。
筑前町山隈で歴史探訪を楽しむことができます。
南北朝時代の武将、菊池武光 は南朝軍の主力として征西将軍・懐良親王を擁し、4万の軍勢を率い戦いを繰り広げました。筑後川の戦い(大原合戦・大保原合戦)で勝利した菊池武光公 は、血糊のついた太刀を小川で洗ったという故事が地名「大刀洗」の由来となりました。
地名の由来は子どもの頃から知ってましたが、その土地に来て、歴史に触れて、改めて知る事が出来ました。以下引用させて頂きました。太刀洗(たちあらい)は筑後国の地名。現在の福岡県三井郡大刀洗町(明治維新の際「点」が抜けてしまった)にあたる。文和17年(1359) 懐良親王・菊池武光と少弐頼尚との筑後大保原での決戦(筑後川の戦い)ののち、傷ついた菊池武光が、刀についた血糊を川で洗ったとされるところが、筑後国太刀洗である。この言い伝えに基づく史跡が「史跡 菊池武光公太刀洗伝承之地」として甘木鉄道山隈駅の近くに整備されている。大刀洗町公園には武光の銅像がある。昭和の戦時中末期、菊池千本槍と共にプロパガンダ映画、「菊池千本槍シドニー特別特攻隊」(菊池寛企画原作)に流用された。
【大原合戰とは】(南朝暦) 正平十四年(一三五九年)七月から八月にかけて、およそ六万人の北軍(少弐・大友連合軍)と、およそ四万人の南軍(懐良親王・菊池武光軍)が宝満川流域の味坂・大原・西島・山隈を含む筑後平野を舞台にして、一大決戦を展開し、両軍の戦死傷者合わせて約二万五千人といわれている。戦いの結果は南軍の勝利となった。以後、菊池武光は懐良親王を奉じて大宰府に征西府をおき、十数年間九州政治の実権を握るに至った。平地戦で短時日にこんなに多数の戦死傷者を出した激戦は稀であるといわれ、その霊魂を弔ったと伝えられる跡やその他の遺跡は残っています。その一部は「善風塚 」「高卒都婆 」「前伏(大原古戦場の石碑)」「将軍藤 」、そしてこの地である「菊池渡 (わたし)」です。石碑の言葉↓この碑は、大正十二(一九二三)年五月に当時の陸軍少将森部静夫氏が、朝倉郡教育会の依頼を受けて太刀洗の由緒について記したものです。しかし、昭和二十(一九四五)年三月の大刀洗飛行場の空襲で紛失していました。この碑文を要約しますと、「南北朝時代正平十四(延文四・一三五九)年大保原(おおぼはる)の戦いで宮方の菊池武光が、幕府方の少弐頼尚(しょうによりひさ)を破り勝利した後、戦いでもちいた太刀の血糊を洗い清めた地である。」という武功が記され、そのあとに、この地が太刀 の伝承地としての論証を「貝原益軒(かいはらえきけん)の『筑前国続風土記』 の記述や、土井正就(まさのり)・大倉種周が測量した江戸末期の測 量図に記されている地名などから定められる」と続けられています。また、「この地に大正七(一九一八)年建設された飛行場に「太刀洗」の名がつけられたのは、この地での菊池武 光の太刀洗伝承によるものである」と記されています。平成十二年三月三輪町菊池武光公が刀を洗ったとされ、太刀洗の由来になる歴史的価値のある場所です。
熊本の武将が福岡に攻めて来たのに、こちらの英雄のようにまつられているのですね❗
| 名前 |
菊池武光公 太刀洗伝承之地 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| 評価 |
3.4 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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こちらにも菊池武光公ゆかりの石碑があると知り、甘木鉄道の山隈で下車し訪問しました。今となってはコンクリートで護岸され、土管も突き出て見る影もないですが、 川のカーブする様子からここで進軍を停め、刀についた血糊を流れで濯いだのも判る気がします。菊池、少弐、双方の兵を供養する石碑があったのも印象的でした。石碑があるだけですので、北方謙三さんの武王の門を一読した上で、タイムスリップしたつもりのご訪問をオススメいたします。