加藤嘉明公の騎馬像、松山の誇り!
加藤嘉明公騎馬像の特徴
加藤嘉明公の騎馬像は松山城の近くに鎮座しております。
賤ヶ岳の七本槍として名高い武将の銅像です。
騎馬像は24時間いつでも鑑賞可能で自由に訪問できます。
加藤嘉明像(かとう よしあき)。(202108)※富山県高岡市出身の田畑功作。賤ヶ岳の七本槍・七将の1人。伊予松山藩および陸奥会津藩初代藩主。東雲神社参道口の左側に造立されています。🅿️駐車場無し。🚻トイレ無し。※客観的に普通の物が『最高』評価にはなりませんので悪しからず。
数々の武功を立てた加藤嘉明の騎馬像です。お城の麓の皆が通るところにあります。市民の方々にも慕われているのでしょう。
松山城を築城した戦国武将の加藤嘉明の騎馬像です。戦国武将の騎馬像は格好いいと思いますが、この像はやや小さく感じます。山麓の隅っこにある感じですが、松山城がある山の上にあった方が良いかなと思いました。加藤嘉明は、関ヶ原の戦いの功により20万石の大名となり、松山平野の中央に位置する勝山に新たに城を築くこととし、1602年に築城を開始しました。そして、それまで「勝山」と呼ばれていた地名を「松山」と命名。築城工事は約四半世紀も続き、城郭が未完成のまま嘉明は会津40万石に転封となりました。
松山城の築城者である加藤義明公「よしあきくん」としてお城のゆるキャラにもなっており世間的にはあまり有名ではない戦国大名やけど松山での認知度はかなり高いんやろなしかしこの銅像のカッコいいことよ戦国武将の銅像はやっぱり騎馬像じゃないとな!が敢えて文句を言うならば…小さいしかも建ってる場所がクルマの通る道端って💦やっぱり戦国大名の銅像はお城の内にあって我ら庶民を見下してくれんとなーま、個人的見解ですが。
伊予松山藩を立藩した加藤嘉明公の銅像です。東雲口登城道の近くにあります。
いつもは、ロープウェイ入口から松山城へ上がりますが、そこから少し通りすぎた所に加藤嘉明公の騎馬像がありました。高知の山内ー豊や青葉城の伊達政宗の騎馬にも劣らない綺麗な騎馬像でした。
加藤嘉明公は豊臣秀吉 子飼の武将で、賤ヶ岳7本槍 (織田信長亡き後の勢力争い 柴田勝家との賤ヶ岳の合戦で特に戦功のあった7人)の1人です。九州征伐、小田原征伐、朝鮮の役などでは特に水軍の将として活躍し、後に関ヶ原の戦いでの戦功によって加増された松山の地に城を築いています。(完成前に会津に転封)元は勝山といったこの地を松山と名付けたのも嘉明公で、松山の歴史を語る上で欠かす事の出来ない人物の1人です。こちらの騎馬像は知名度こそやや低いものの勇猛な武将 嘉明公の印象そのままの素晴らしい像だと思います。
2021年4月訪問かの武将、加藤嘉明公の騎馬像です。勇猛果敢で戦上手な嘉明公を見事に現しています。
加藤さんです。よく知らないけど。銅像になるから凄い人なんだろうな?
名前 |
加藤嘉明公騎馬像 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
4.0 |
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加藤嘉明公年表(1563年~1631年)1563年(永禄6年)三河国永良郷賀気村(愛知県)に生まれた。1575年(天正3年)羽柴秀吉に見出されて、羽柴秀勝の小姓となり加藤姓を名乗る。1583年(天正11年) 秀吉と柴田勝家との戦いでは、名高い「賤ヶ岳七本槍」の一人として奮戦し3000石の知行を与えられる。その後、秀吉の旗下として多数の武功をあげ、1595年(文禄4年)伊予松前(正木) 6万石に転封した。秀吉の死後は徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いの後、1601年(慶長6年) 伊予半国20万石に加増される。1602年(慶長7年)正月15日松山城の築城を創める。 翌年居城を松前から松山に移した。1595年(文禄4年)から6年間の松前時代と1601年(慶長6年)からの26年間の松山時代に、城主として城下町の整備や重信川・石手川の水利を整え良田を開発し更に殖産に意を注いで領民の生計安定に努めた。1627年(寛永4年)嘉明公65歳の時、陸奥会津40万石に加増転封となる。1631年(寛永8年)9月12日69歳の時、江戸桜田の会津藩邸にて死去した。