加藤嘉明公の騎馬像で歴史散策。
加藤嘉明公騎馬像の特徴
加藤嘉明公の騎馬像は松山城の近くに鎮座しております。
賤ヶ岳の七本槍として名高い武将の銅像です。
騎馬像は24時間いつでも鑑賞可能で自由に訪問できます。
松山城の創設者であったことでも知られる戦国武将、加藤嘉明。騎馬に跨り、颯爽とした姿に足を止めました。この後観光に赴いた松山城では、この様な立派な像は無かった(と思います)ので、偶然にも見ることが出来て良かったです(^^)。加藤嘉明は、関ヶ原の戦いにおける功により20万石の大名となりました。そこで、これまでの拠点であった正木城(愛媛県松前町)から、勝山(松山の前の地名)に城を築くことになりました。それが松山城となります。松山城の築城工事は実に四半世紀にも及んだため、加藤嘉明は、未完成の状態で会津に転封(領地を他にかえる、の意)となりました。
加藤嘉明公騎馬像〒790-0008 愛媛県松山市大街道3丁目8-22像の脇に丁寧な年表があるのでいかに文字起こししておきます。また、日本大百科全書を引用しておきますが、会津とも関わりが深いという点に興味を持ちました。加藤嘉明(よしあき)(1563―1631) 安土(あづち)桃山時代・江戸初期の武将。会津40万石の領主。三河国(愛知県)に生まれる。初め茂勝、孫六、のち左馬助(さまのすけ)と称す。初め豊臣秀吉につかえ、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いに七本槍(やり)の1人として名をあげ、文禄・慶長の役では水軍の将として功績があった。秀吉の死後は徳川家康に従い、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは家康側で活躍、戦後、伊予松山20万石を賜り、大坂の陣でも戦功をたてた。27年(寛永4)3月加恩20万石を賜り、会津40万石を領し若松城に入部した。ほかに三春(みはる)、二本松(にほんまつ)も加藤氏の一族で支配した。領内白河街道滝沢峠の開削(かいさく)を初めとする交通網の整備、若松城の普請などを手がけた。また茶道をよくし、京都桂(かつら)離宮の松琴亭前に架けられた石橋を寄進するなど風流の道にも通じていた。寛永(かんえい)8年9月12日没した。●加藤嘉明公年表 (1563年~1631年)1563年(永禄6年) 三河国永良郷賀気村(愛知県)に生まれた。1575年(天正3年) 羽柴秀吉に見出されて、羽柴秀勝の小姓となり加藤姓を名乗る。1583年(大正11年)秀吉と柴田勝家との戦いでは、名高い「賤ヶ岳七本槍」の一人として奮戦し3000石の知行を与えられる。その後、秀吉の旗下として多数の武功をあげ、1595年(文禄4年)伊予松前(正木)6万石に転封した。秀吉の死後は徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いの後、1601年(慶長6年)伊予半国20万石に加増される。1602年(慶長7年)正月15日松山城の築城を創める。翌年居城を松前から松山に移した。1595年(文禄4年)から6年間の松前時代と1601年(慶長6年)からの26年間の松山時代に、城主として城下町の整備や重信川・石手川の水利を整え良田を開発し更に殖産に意を注いで領民の生計安定に努めた。1627年(寛永4年)嘉明公65歳の時、陸奥会津40万石に加増転封となる。1631年(寛永8年)9月12日69歳の時、江戸桜田の会津藩邸にて死去した。The First Lord of Matsuyama Castle The Equestrian Statue of Kato YoshiakiTimeline of Kato Yoshiaki (1563-1631)1563 (Eiroku 6) – Yoshiaki was born in Mikawa no Kuni (the present day Aichi)1575 (Tensho 3) - Hashiba Hideyoshi discovered Yoshiaki's talent. Yoshiaki became a page to Hashiba Hidekatsu, and named himself Kato. 1583 (Tensho 11)-At the battle between Hideyoshi and Shibata Katsuie, Yoshiaki made an extraordinary contribution as one of the seven excellent commanders "Shichi-hon-yari(seven lancers) of Shizugatake", and was awarded 3,000 koku parcels or about 540,000 liter of rice.Yoshiaki continuously served Hideyoshi diligently as a director retainer.1595 (Bunroku 4) - Yoshiaki's territory was changed to lyo Masaki with 60,000 koku parcels or 10.8 million liter of rice. After Hideyoshi's death Yoshiaki served Tokugawa leyasu and fought so well at the Battle of Sekigahara, and awarded Iyo Province with 200,000 koku parcels or 36 million liter of rice in 1601(Keicho 6).1602 (Keicho 7) - Yoshiaki started construction of Matsuyama Castle, and moved his residence to Matsuyama from Masaki in 1603. As a lord of Masaki Castle for 6 years and Matsuyama Castle for 26 years, Yoshiaki took initiatives for the development of rice fields by improving the irrigation system from Shigenobu River and Ishite River, which contributed to the stable livelihood of people of the domain..1627 (Kanei 4) - Yoshiaki was transferred to Aizu (the present day northern part of Japan such as Aomori and Iwate) and was granted a 400,000 koku parcels or 72 million liter of rice when he was 65 years old.1631 (Kanei 8) - Yoshiaki died at the age of 69 in the residence of Aizu domain in Edo Sakurada (the present day around Kasumigaseki, Tokyo) on September 12th.
加藤嘉明公年表(1563年~1631年)1563年(永禄6年)三河国永良郷賀気村(愛知県)に生まれた。1575年(天正3年)羽柴秀吉に見出されて、羽柴秀勝の小姓となり加藤姓を名乗る。1583年(天正11年) 秀吉と柴田勝家との戦いでは、名高い「賤ヶ岳七本槍」の一人として奮戦し3000石の知行を与えられる。その後、秀吉の旗下として多数の武功をあげ、1595年(文禄4年)伊予松前(正木) 6万石に転封した。秀吉の死後は徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いの後、1601年(慶長6年) 伊予半国20万石に加増される。1602年(慶長7年)正月15日松山城の築城を創める。 翌年居城を松前から松山に移した。1595年(文禄4年)から6年間の松前時代と1601年(慶長6年)からの26年間の松山時代に、城主として城下町の整備や重信川・石手川の水利を整え良田を開発し更に殖産に意を注いで領民の生計安定に努めた。1627年(寛永4年)嘉明公65歳の時、陸奥会津40万石に加増転封となる。1631年(寛永8年)9月12日69歳の時、江戸桜田の会津藩邸にて死去した。
加藤嘉明像(かとう よしあき)。(202108)※富山県高岡市出身の田畑功作。賤ヶ岳の七本槍・七将の1人。伊予松山藩および陸奥会津藩初代藩主。東雲神社参道口の左側に造立されています。🅿️駐車場無し。🚻トイレ無し。※客観的に普通の物が『最高』評価にはなりませんので悪しからず。
数々の武功を立てた加藤嘉明の騎馬像です。お城の麓の皆が通るところにあります。市民の方々にも慕われているのでしょう。
松山城を築城した戦国武将の加藤嘉明の騎馬像です。戦国武将の騎馬像は格好いいと思いますが、この像はやや小さく感じます。山麓の隅っこにある感じですが、松山城がある山の上にあった方が良いかなと思いました。加藤嘉明は、関ヶ原の戦いの功により20万石の大名となり、松山平野の中央に位置する勝山に新たに城を築くこととし、1602年に築城を開始しました。そして、それまで「勝山」と呼ばれていた地名を「松山」と命名。築城工事は約四半世紀も続き、城郭が未完成のまま嘉明は会津40万石に転封となりました。
2024年7月19日に散策で見つけました。関ヶ原の戦い以降、伊予の一部の大名となった加藤嘉明は、当時勝山と呼ばれていた地を本拠地として地名も「松山」と変えたそうです。そういう意味で、松山を作った男ということになります。
松山城の築城者である加藤義明公「よしあきくん」としてお城のゆるキャラにもなっており世間的にはあまり有名ではない戦国大名やけど松山での認知度はかなり高いんやろなしかしこの銅像のカッコいいことよ戦国武将の銅像はやっぱり騎馬像じゃないとな!が敢えて文句を言うならば…小さいしかも建ってる場所がクルマの通る道端って💦やっぱり戦国大名の銅像はお城の内にあって我ら庶民を見下してくれんとなーま、個人的見解ですが。
伊予松山藩を立藩した加藤嘉明公の銅像です。東雲口登城道の近くにあります。
| 名前 |
加藤嘉明公騎馬像 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
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加藤嘉明元は三河の出身だが、流浪の末に秀吉配下になる。嘉明は派手な功績はないが若い頃からかなりの戦上手であったようで、賤ケ岳の七本槍に選ばれた時は若干二十歳であった。その後、数々の戦で功績を上げるが、嘉明は陸戦も海戦も達者であったようで、いずれの戦いにおいてもほとんど勝利している。関ケ原の戦いでは三成憎しの気持ちから西軍に属し、以後家康に臣従して大阪夏の陣にも出陣して豊臣方を滅亡させる手助けをしており、秀吉恩顧の部将の中でも特段武略に優れた加藤清正や福島正則は、家康が徹底的に排除しようと腐心したが、同じ立場だった嘉明は家康に厚遇されている。東北地方の要衝である会津43万石を任せられたのはその武略を家康から信頼されてのことであろう。