筑後川に誇り、軍艦千歳の歴史。
軍艦千歳慰霊碑の特徴
軍艦千歳の名は筑後川に由来し、歴史的意義があります。
1938年に竣工した水上機母艦の竣工年を知ることができます。
地元住民による軍艦千歳か会の発足で地域活性化が図られています。
郷土に根付く軍艦『千歳』。勇戦奮闘する勇姿が目に浮かびます。
なんか情報が入り乱れてて、間違いも散見されますんで一言・・・・1938年11月、水上機母艦として竣工1942年6月?、ミッドウェー海戦にて主力空母4隻沈没1942年11月、空母へ改装開始1943年9月、空母として完成竣工1944年10月、フィリッピン沖海戦にて沈没空母としては搭載機30機なんですが、オトリ役でフィリッピン沖海戦に出撃した時の搭載機数は戦闘機(零戦)12機・艦攻(天山)6機だったそうで、出撃した他の3隻の空母も似たような状況でした。長引く戦争で発着艦出来るパイロットが消耗して、これだけしか集まらず、飛び立った搭載機は特に戦果を上げられず近くの基地へ着陸し、あとはオトリ役として米軍の猛攻を受け続け、善戦虚しく沈没したそうです。
私は125CCの原付二種のスクーターで九州を一周しています。佐世保市の東山海軍墓地から来ました。東山海軍墓地は明治から昭和にかけて戦闘や事故で沈んだ軍艦・艦艇や同じく戦闘や事故または病死されたと思われる軍人の方が眠っています。そこには空母加賀の慰霊碑の裏に石柱が二つあり左側の石柱には「軍艦千歳の記念碑は久留米市の水天宮境内にあります」と掘ってありました。そこで慰霊碑に手を合わせようとやって来ました。たまたま台風10号が来るみたいなので雨の降っていないタイミングで来れたのは幸運でした。柵に囲まれてはいますが入ることができます。献花台が両脇にありお線香も立てられます。参詣した時の記録台もあります。何故か入り口にお賽銭でしょうか。お金が置いてありました。雨模様なのでお線香はあきらめました。礼をして黙祷して写真をいただきました。写真はキレイに撮れたと思いますが、慰霊碑の周りは蜘蛛の巣がいっぱい張っていて手入れはされていないようです。
筑後地方より1900名の有志により、軍艦千歳か会を発足させました。
「千歳」という名称が筑後川から名付けられたと初めて知りました。
戦艦千歳は、日本帝国海軍の戦艦である。全長は、1925mであり、呉海軍基地で水上機母艦として造船され、佐世保の海軍基地で空母軍艦として改造された経緯を持つ珍しい軍艦である。ゼロ戦闘機は21機搭載された。レイテ大戦に参加するも撃沈する。久留米水天宮に慰霊塔があるのは、久留米水天宮が艦内神社が、久留米水天宮であるので久留米の地に慰霊塔が存在する。千歳の呼び名は。千歳川は(筑後川)の昔の呼びな千歳から、戦艦名がつきました。たしか、ジブリ作品にも出てくる軍艦ではないかと思います。
昭和9年度からのマル2計画によって建造された水上機母艦。元々は甲標的母艦として計画されたが、秘匿のため水上機母艦として竣工した。この時は空母改造を考慮する要求があったが、後日考慮するとして詳細な検討はされていない。竣工後は水上機母艦として中国大陸に進出した。1944年(昭和19年)6月に僚艦の「千代田」とともにマリアナ沖海戦に参戦、同年10月25日、レイテ沖海戦で「千代田」と共に米空母艦載機の猛攻を受け、エンガノ岬沖に沈没した。
名前 |
軍艦千歳慰霊碑 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0942-32-3207 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.4 |
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「軍艦千歳は筑後川(別名千歳川)の名を取って命名されたものであり艦内神社に水天宮を奉祀してありました」と石碑に書かれていました。そんな由来があるとは知りませんでした。出会えて良かったです!