上杉憲顕公の歴史深き墓。
上杉堂の特徴
上杉憲顕公自刃の地、歴史の深い金剛寺です。
武州鉢形城主でもあった上杉憲顕の墓があります。
高幡山明王院金剛寺は古げな雰囲気を醸し出しています。
高幡山明王院金剛寺(高幡不動尊)上杉堂。
目立たないお堂ですが、古げで由緒があります。裸石が墓標というのも、そうなんだと思います。
上杉憲顕の墓上杉憲顕は氏憲の子、享徳4年正月(1455年)足利成氏の軍と立川河原に会戦、深手を負い、高幡寺に入り自刃した。自然石はその墓標で、俗に間信仰に茶湯石(服石)と言い、百か日忌払い供養の伝承がある。HPより上杉憲秋とも表記されます。上杉憲顕で調べると、1300年代に初代関東管領で守護大名の同姓同名の武将がいるので困惑します。上杉憲秋は上杉禅秀の子です。この父親の挙兵失敗後、弟と共に京都に逃れ、足利義持に仕えました。義持の命で鎌倉公方足利持氏を討つため関東各地で戦いました。説明板の立川河原というのは分倍河原の戦いと呼ばれていて、持氏の子である足利成氏(しげうじ)率いる鎌倉公方と上杉憲秋率いる関東管領勢との間の合戦です。この戦いをきっかけに享徳の乱の幕が開かれる事になりました。
(18/07/26)上杉憲顕鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・守護大名。初代関東管領。山内上杉家の始祖。
名前 |
上杉堂 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.2 |
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山内上杉氏祖、上杉憲顕公の墓ここ、金剛寺は、憲顕公が、享徳4年(1455)の分倍河原の戦いで、古河公方足利成氏に敗れ、傷を負い、自刃した場所で、この憲顕公は、武州鉢形城主で、かの長尾景春も、及びに及ば無かった人物です。