高幡不動尊で上杉憲顕公を偲ぶ。
上杉堂の特徴
上杉憲顕公自刃の地、歴史の深い金剛寺です。
武州鉢形城主でもあった上杉憲顕の墓があります。
高幡山明王院金剛寺は古げな雰囲気を醸し出しています。
高幡不動尊の境内を散策している中で、上杉堂にも立ち寄りました。静かで落ち着いた雰囲気が印象的で、境内の自然や歴史ある建物と調和した趣のある場所でした。派手さはありませんが、ゆっくり見学することで高幡不動尊の歴史や文化をより身近に感じることができ、散策の楽しみがさらに広がりました。建物は丁寧に管理されており、周囲もきれいに整備されているため、落ち着いた気持ちで見学することができます。境内には多くの見どころがありますが、このような場所にも足を運ぶことで、新たな発見があり、高幡不動尊の奥深い魅力を感じることができました。静かな空間なので、時間を忘れてゆっくり過ごせるのも魅力です。歴史や文化に興味がある方はもちろん、境内をのんびり散策したい方にもおすすめしたい場所です。参拝とあわせて上杉堂まで足を延ばすことで、高幡不動尊の魅力をより深く味わうことができました。また季節を変えて訪れ、自然の景色とともにゆっくり見学したいと思える素敵なスポットでした。
どの上杉様?と思いましたが、上杉憲秋殿らしいです。伝承によれば、上杉禅秀(氏憲)の子である上杉憲秋(うえすぎ のりあき)は、室町時代中期の武将で犬懸上杉氏の5代目当主です。父の挙兵・敗北後は京都に逃れて将軍に仕えましたが、のちに関東へ戻り、1455年の分倍河原の戦いで自刃しました。生涯と事績の詳細は以下の通りです。生涯と事績禅秀の乱での離脱: 1416年、父・禅秀が鎌倉で「上杉禅秀の乱」を起こすと一軍を率いて戦いましたが、途中で病にかかり離脱しました。そのため、乱が失敗に終わった後は京都へ逃れることができました。上洛と家督相続: 京都で第4代将軍・足利義持に仕え、のちに犬懸上杉家の家督を継ぎました。最期: 1455年、関東で勃発した享徳の乱において、分倍河原の戦いで先陣を務めましたが、鎌倉公方・足利成氏の軍勢に大敗。現在の東京都日野市にある高幡不動尊(金剛寺)へ逃れ、境内で自刃して果てました。系譜とその後一族の衰退: 犬懸上杉氏は父の禅秀の代で関東における勢力を大きく減退させており、憲秋の代でも苦境が続きました。子孫: 家督は次男の憲定が継ぎ、その後も一族は存続しました。とあります。高幡不動に祀られているからですね。写真は2024年9月撮影です。
高幡不動尊にある上杉堂。
高幡不動の多くの建物の中で見過ごされがちですが、こちらはお参りした方が良さそうです。
他の方も皆さん書いているが、上杉憲顕の表記だと同姓同名の武将が居るので紛らわしい上杉憲秋と書き直す心配りが無いところが高幡らしい。
上杉憲顕氏のお墓とあったので、初代関東管領のことかと思ったら、上杉禅秀の子の憲秋だった。分倍河原の戦いの際にこの地で自刃したとのこと。
山内上杉氏祖、上杉憲顕公の墓ここ、金剛寺は、憲顕公が、享徳4年(1455)の分倍河原の戦いで、古河公方足利成氏に敗れ、傷を負い、自刃した場所で、この憲顕公は、武州鉢形城主で、かの長尾景春も、及びに及ば無かった人物です。
高幡山明王院金剛寺(高幡不動尊)上杉堂。
山内上杉氏祖、上杉憲顕公の墓ここ、金剛寺は、憲顕公が、享徳4年(1455)の分倍河原の戦いで、古河公方足利成氏に敗れ、傷を負い、自刃した場所で、この憲顕公は、武州鉢形城主で、かの長尾景春も、及びに及ば無かった人物です。
| 名前 |
上杉堂 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
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高幡不動尊の境内の一角にある上杉堂。本堂など主要な建物に比べると目立たない場所にありますが、歴史を感じる木造のお堂で、扁額の風格ある佇まいが印象的でした。境内を一通り巡る中で見つけた、知る人ぞ知るスポットという感じ。色とりどりの飾りや奉納された品々が掛けられていて、地域の方々の信仰が今も息づいているのが伝わってきます。本堂周辺の賑わいとはまた違った、静かで落ち着いた空気が流れているのが良かったです。参拝の際にメインの建物だけでなく、こうした境内の隅々まで足を運ぶと、お寺の奥行きや歴史の積み重ねをより深く感じられます。見落としがちですが、立ち寄ってみる価値のある場所でした。