歴史の舞台 竹中半兵衛陣所跡。
竹中半兵衛陣所跡の特徴
竹中半兵衛の陣地は秀吉本陣近くに位置し、歴史を感じさせる場所です。
標高130mの遊歩道からは土塁や帯段郭が見える貴重な景観が楽しめます。
秀吉の三木城攻略に関わった軍師の地として、歴史好きにはたまらないスポットです。
秀吉の本陣の北側の少し離れたところにあるややこじんまりとしているがかつてはこちらが本陣と考えられていたらしい主郭はかなり低くなっているが土塁で囲まれており下は藪だらけだが兵士駐屯用の帯郭はあることがわかる。
三木城付城跡の一つ。我らが半兵衛様の陣所跡。個人の付城跡って、他に有ったかな?秀吉さんの本陣跡の近く、チョット離れた位置だけど、お墓参りとセットにて。郭内は、ホントこじんまりだけど、綺麗にくぼみ、土塁遺ってます。
道路脇に標柱と、郭に繋がる階段があります。狭い郭内になぜかベンチがありました。郭の背後は部分的に崩落したのか、断崖になっているので注意が必要です。
近くの秀吉陣所跡と半兵衛墓所はセットで訪れるのがよろしいかと。
秀吉本陣跡を訪れたからには、ここも行って見なければと言う事で行ってみました。距離的には近くやったのに、山の起伏があったりナビ通りに行けなかったり、結構時間掛かりました。最初からここを目指してれば、麓に矢印出てました。しんどい思いしてたどり着いたけど、秀吉本陣の方が見晴らし良かったです。
☆『平井村中村間ノ山付城跡』=竹中半兵衛陣所跡🐎羽柴秀吉本陣の裏手防御のため北側に布陣した竹中半兵衛の三木合戦陣所跡⚔️主郭は「単郭方形」、東西15m×南北11m、周囲を土塁で囲み南側1ヶ所に虎口を構築、主郭の北西側中腹に二段の帯曲輪と切岸で自軍陣地背後の守備を強化した縄張🤔登城路は比較的整備されて登りやすい、主郭まで5~7分ほど、登城路前には駐車場なく少し東側の坂の下が道幅広く路肩に駐車可能🚙☆名軍師『竹中半兵衛重治』☆この陣中で病に倒れし純粋で気骨の人竹中半兵衛あってこその羽柴秀吉「陣中で死ぬ事こそ武士の本望」享年36
かなりわかりにくい場所にあります。普通のルートで行くと道が封鎖されているのでぶどう園を抜けていくルートになります。
標高130mぐらい太閤本陣の北側にある駐車場🅿️横から遊歩道が整備されてる案内表示が分かれ道に貼ってあった縄張図付の説明板が建ってた🪧土塁囲み♪になってる階段から かすかに帯段郭♪が見えるって‼️、土塁がすり減ってる😧アメマ虎口は北側の凹みだったらしい..
三木合戦の際、羽柴秀吉は平井山に本陣を置いたが、その本陣のすぐ北側に築いた付城であり、軍師竹中半兵衛が守護にあたった。竹中半兵衛は、三木籠城攻めの最中に、陣中で病死した。この竹中半兵衛の墓は、同じく平井山の山中にある。
| 名前 |
竹中半兵衛陣所跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
|
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竹中半兵衛陣所跡で半兵衛がどのような最期を迎えたのか?大河ドラマ『豊臣兄弟!』では描かれなかった本当の史実とは?半兵衛が秀吉に残した言葉とは?詳しい解説をさせていただきます。竹中半兵衛は、播磨国三木城の戦いの陣中(兵庫県三木市・平井山周辺の陣所跡)にて、1579年(天正7)6月13日、肺結核(労咳)により、36歳の若さで亡くなりました。大河ドラマでは描かれなかった史実と逸話⦿陣中での病没の決意:『竹中家譜』などの軍記物によれば、半兵衛は病に倒れた際、秀吉が京都へ療養するように勧められました。しかし『陣中で死ぬことが武士の本望である』とこれを断り、わざわざ播磨の戦陣に戻って息を引き取ったとされています。半兵衛が最期に残した言葉⦿半兵衛の死の間際のエピソードは後世の軍記物によるものが多いため、主に伝承や逸話として語り継がれています。秀吉に伝えたとされる言葉⦿療養を断り、陣中に戻った理由として、『武士なら戦場で死にたい、陣中で死にたかったまででございます』と自身の覚悟を示す言葉を残したとされています。また、死を悟った半兵衛は秀吉に『敵を侮るな』『身分不相応のぜいたくはするな』といった戒めの言葉や『己を凌ぐ者家臣は好まない』(死後、秀吉が織田家で出世しすぎると信長との確執を生むかもしれない)という今後信長忠告も残したと伝えられています。第23回『さらば半兵衛』で美しくも切ない最期を迎えた竹中半兵衛。その知略は後世の歴史書にも数多くの伝説を残しました。