歴史を感じる青沼浅間神社。
青沼浅間神社の特徴
甲府市総合市民会館の近くにあり、アクセスが抜群です。
青沼浅間神社の周辺にはガスの力を感じる空気があります。
神社を訪れると、特別なエネルギーを体感できる場所です。
綺麗に整備された大社で名神大社の一社です。御朱印、駐車場、トイレは有りませんでした。
2025年4月の週末に参拝。小さな神社ですが神楽殿もあり、しっかりした造りです。拝殿の右手前に古そうなおみくじの機械があり、隣におみくじを結ぶおみくじ掛けにいくつも結ばれているので、一応、動作している様です(試してません)。なお、駐車場はありません。
青沼浅間神社(旧野良浅間社)。御祭神は木花咲耶姫命。野良は文献により「野」一文字で「のら」とありましたが、野良や野と言う地名は見つからない。何処からきた名前なのだろう。
初詣なのにおみくじの在庫がないので100円入れても出てこない。
甲府市総合市民会館の東?側にある浅間神社。コロナ前はここでも地元の小さなお祭りが開催されていた。もしかしたら、そろそろ再開するかもしれない。
ガス(原文)氣。
パワーを感じますね。
| 名前 |
青沼浅間神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP |
http://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/1025 |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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書にて「浅間神社」を調べてみる富士山噴火による災害によって、天皇の命により作られた神社であることがわかる。「甲斐国誌」によりこの神社の歴史をしらべ、「六国史」にて、神社設立の原因となった、富士山噴火とその対策(「浅間神社」設立)を調べてみる。私的には、機会があったら調べてみたいと思った「富士山噴火」を調べる機会が此処で作れて良かったと思っている。________________❶【参考 甲斐国誌 1814年】浅間明神 東青沼村の内「浅間明神」は、村内の黒印神領として3石3升1合を認められている。古い社地の広さは132坪余りである。神社の記録によると、「日本三代実録」に記された貞観7年(865年)12月20日の条にて、甲斐国山梨郡と八代郡にそれぞれ「浅間明神」を祀るよう命じられた際、その山梨郡側の神社というのが、まさに当社のことである、とある。文禄年間(1592年〜1596年)に「甲府城」を築城する際、もともと東青沼にあった神社をこの場所に移転させ、「白山権現」と「浅間明神」の二社を並べて建てたとある。(文禄中に場所が移動しているという記述と受け止められる)しかし、享保12年(1727年)12月9日の火災で焼失。その後、資金や敷地の都合で南殿を再建することが難しかったため、一つの社殿に複数の神様を合わせ祀る「相殿造」として再建した。その際、向かって左側に「白山権現」、右側に「浅間明神」を祀ったとある。祭礼は6月1日から25日まで行われる。夜中であっても参拝者が多いため、役人が巡回・警備にあたっている。また、ここは古くからの「巡検所」であったという。本殿・拝殿・髄神門(ずいじんもん)・標石神地(ひょうせきしんち)等あり。「浅間明神」は何度か火災に巻き込まれたため、「浅間神社」の宝物や古い記録などは伝わっていない。しかし、現在の神主である「土屋図書喜尚(よしひさ)」の先祖、「土屋次郎右衛門尉( じろうえもんのじょう)」が授かった、天正10年3月10日付の武田勝頼による朱印の定書が1通現存している。このほか、歴代の御朱印状が6通、さらに「四奉行」による黒印状もあわせて保管している。____________❷【参考 六国史・9巻 昭和15年版】【神社の起こりの出来事】 富士山噴火の記事まとめ。〇「貞観6年(864年)5月25日、庚戌(かのえいぬ)」富士山の噴火長雨が降り続りつづきました。京の都で隠居している者や、飢えや病に苦しむ者に、特別に救済を施しました。「駿河国」からの報告によると、富士郡にある「正三位・浅間大神(富士山)」の山頂で噴火が発生しました。その勢いは非常に激しく、周囲一、二里の山を焼き、炎の高さは二十丈(約60メートル)ほどに達しました。雷が鳴り響き、地震が三度起こりました。十日余り経っても火は消えず、岩石は焼け焦げて嶺は崩れ、砂や石が雨のように降り注ぎました。煙と雲が立ちこめて蒸せ返り、人は近づくことができません。大山の北西にある「本栖水海(現在の本栖湖付近にあった広大な湖)」には、焼けた岩石が流れ込んで湖を埋めてしまいました。その範囲は、長さ三十里(約16キロ)、幅三、四里(約2キロ)、高さ二、三丈(約6〜9メートル)にも及びました。火炎はついに甲斐国(現在の山梨県)との境にまで達しました。ー・-・-・-・-・-・-・〇「貞観7年(865年)12月9日 丙辰(ひのえたつ)」八代郡に「浅間明神の祠」を建てた記事。天皇の命令が下された。「甲斐国八代郡に「浅間明神の祠(ほこら)」を建て、官社の列に加えよ。直ちに祝(ほうり)や禰宜(ねぎ)といった神職を置き、しかるべき時期に祭祀を行え」というものです。これより前に、甲斐国の国司が次のように報告していました。「数年前、八代郡では暴風雨、雷電、地震が起こり、雲や霧が深く立ち込めて山や野の区別もつかないほどでした。すると、駿河国にある富士山の北西の峰で、突如として激しい火の手が上がり、岩や谷を焼き砕きました。今年の調査で、八代郡の役人である無位の「伴直真貞(とものあたえ まさだ)」が神がかりとなり、こう告げました。「我は浅間明神である。この甲斐の国でも私を祀ってもらいたい。近ごろ役人が凶作を招き、民が病死しているのは、私の存在に気づかず祀らなかったためである。早く神社を定め、「伴直真貞(とものあたえ まさだ)」を神職に任じて、清らかに祭祀を奉じよ』と。この「伴直真貞(とものあたえ まさだ)」の体は、ある時は八尺(約2.4m)ほどに伸び、ある時は二尺(約60cm)ほどに縮むなど、異様な変化を見せ、火を吐くような言葉で託宣を述べました。国司が占いを行わせたところ、その結果も「伴直真貞(とものあたえ まさだ)」の言葉と一致しました。そこで神の願いに従い、「伴直真貞(とものあたえ まさだ)」を「祝(はふり)」に、同郡の「伴秋吉(とものあきよし)」を「禰宜(ねぎ)」に任じ、郡役所の南に神宮を建てて、噴火を鎮めるよう祈りました。しかし、異様な火の勢いは今も止まりません。使者を遣わして調べさせたところ、溶岩は湖(剗の海)を千町(約1000ヘクタール)ほども埋め尽くしていました。山を仰ぎ見れば、山頂の真ん中には立派な社殿が飾られ、四隅には赤や青で彩られた石の垣根が立っています。その石は高さ一丈八尺(約5.4m)、幅三尺、厚さ一尺余り。石の門が立ち、その間隔は一尺ほど。中には石造りの二階建ての楼閣があり、その彩りの美しさは言葉では言い尽くせません。どうか、この神を公式に祀り、官社に加えていただきたい。国はこの願いを聞き入れ、これを許可した。-・-・-・-・-・-・-・〇「貞観7年(865年)12月20日 丁卯(ひのとう)」山梨郡においても「浅間明神」を祀れとの命令があった記事20日、甲斐国に対し、山梨郡においても「浅間明神」を祀り、八代郡と同じように祭祀を執り行うよう天皇が命じた。とある。