戦国の礎、武田信虎公像。
武田信虎公之像の特徴
武田信虎公の像は、迫力があり訪れる価値がある。
甲府の歴史的背景を感じられる観光スポットです。
武田城下町の整備に関与した重要人物の銅像です。
厳しい人のイメージがありますが甲府では、やっぱりご領主さまだったのですかね。駅の反対側には息子の信玄像があります。
武田信玄に追放されてしまった武田信虎の像です。肖像画だと怖い顔をしていますが、銅像は凛々しいお姿になっておられました。近くに30分無料の駐車場もありますので、反対側に鎮座する武田信玄像と併せて駅前ですが車でも来訪可能なスポットになっております。武田信玄だけでなく、武田家を一級の武家に仕立て甲府を築いた武田信虎も是非ご覧ください。
武田信虎は、甲斐国の守護職を務める武田家の第17代当主・武田信縄の嫡男として生まれました。初名は信直です。永正4(1507)年、信縄の死により、信虎は14歳で家督を継ぎ、甲斐国の統一を果たし戦国大名へと成長しました。永正16(1519)年12月20日、川田(甲府市川田町)から躑躅が崎の地に館を築いて移り住み、同時に館の周囲には家臣や商職人らの移住を図り、多くの寺社も配置し甲斐国の新たな府中である「甲府」を開きました。天文10(1541)年、娘婿であった今川義元訪ねた際、晴信(信玄)によって帰路を絶たれ、駿河国に留まり隠居、まもなく出家し無人斎道有と名乗りました。義元の死後上洛し、将軍家に奉公しました。天正2(1574)年息子信廉が在城した信濃国高遠城へ身を寄せ、81歳で死去しました。葬儀は、甲府市古府中町の大泉寺で行われました。後継者となった信玄・勝頼が戦国大名として飛躍できたのは、甲斐国を一つにまとめ、甲府を開いて勢力基盤を整備した信虎の功績に寄るところが大きいです。平成30(2018)年12月20日、JR甲府駅北口「よっちゃばれ広場」で20日、甲府商工会議所が設置した「武田信虎公之像」の除幕式が行われました。令和元(2019)年は甲府開府500年にあたることから、甲府商工会議所から甲府市に寄贈されたものです。銅像の高さは2.1m、重さは400kg、右手に軍配風の扇子を持ち、左手は拳を胸の前で握っています。当時の館の方向を背に、顔を富士山に向けています。
武田信虎公の銅像になります。甲府駅を出てすぐの駅前広場に設置されていました。立派でよいですね。
武田信虎には暴君のイメージがありますが、有力土豪層が割拠して乱国となっていた甲斐を統一し、甲府の城下町を開創するなど画期的な政策を推し進め、戦国大名・武田氏の基盤を築いた人物(甲府市HPより)子息の信玄公との不仲により甲斐国を追放されたイメージの強い方ではありますが、信玄公のその後の活躍も信虎公が礎を築いた武田氏あってのもの。そこはもっと評価されるべき御仁ではないかと思います。甲府駅北口からほど近い場所にあり、拝見しやすい場所でしたので、南口の信玄公の銅像と共に信虎公の銅像拝見もオススメです。
こちらは2025年04月09日の訪問となります。甲府駅北口のよっちゃばれ広場にある銅像です。かの武田信玄の父親で、甲府の礎を築いた方です。甲府開府500年を記念して駅北口に建てられたそうで、高さは2.1m、重さは400kgとの事。一族内乱や新勢力台頭で震える甲斐国を統治すべく尽力するも、晴信(信玄)などにより甲斐追放・隠居を強制された人物。追放された理由、また、父子どちらが先に敵意を抱いていたかは諸説分かれています。親子でも淘汰し合う、戦国も今も人間の縮図はげにコキュートスよのぉ~。
甲府駅南に布陣される武田信玄公と相対して北は信虎公が布陣されていました!軍配を持った姿が凛々しいです。
2019年のこうふ開府500年を記念して、甲府の礎を築いた武田信虎公の業績を知ってもらおうと甲府駅北口よっちゃばれ広場に設置されました。右手に軍配を持ち、武田氏の本拠地を背に、甲斐国を統一した後登ったと伝えられている富士山を見据えています。駅南口広場の「信玄公像」と共に、市の玄関口のシンボルとなっています。
武田信玄公の父上の銅像です。南口にある武田信玄公の銅像と比べる迫力が不足していますが。
| 名前 |
武田信虎公之像 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
|
周辺のオススメ
甲府を象徴する武田信玄の父にして甲斐源氏第18代当主の武田信虎の像です。甲府駅北口を出た広場に南口の甲府城を見るような目線で立っています。甲府駅からバスで武田神社に向かう際の乗り場のすぐそばにあるので、待ち時間で簡単に見る事ができます。私は甲府と言えば彼と生涯仲の良くなかった息子の武田信玄のイメージが強かったので、信虎が像という形で記念されているのはやや驚きでした。