吉田城で歴史を感じる。
吉田城の特徴
東三河の交通要所に位置する歴史的な吉田城です。
1954年に模擬再建された黒金櫓が見どころです。
石垣に囲まれた広場で手筒花火が開催されています。
城の中には大昔に入ったので、今回は外見だけ見ました。この日(25年12月12日)は風が強くて大変でした。天然のお掘りである豊川が波打ってましたので…
26.5.9無料駐車場あり駐車場🅿️から5分ぐらいで行けます10時〜15時までなので時間注意してくださいね無料で入れていろいろ見れますこの日は吊るし雛が飾ってありましたが説明ボードの前に飾ってあるので見るのに大変吊るしは雛は触らないでくださいとありもうちょっと考えて配置してくれると嬉しいですねあまり人はいませんでしたがすごいゆっくり見れるので良いですよお城周りのOO跡はほとんど立ち入り禁止になっていて見れないですがちょこっと立ち寄ってみるには良いですよ。
旧東海道踏破チャレンジ2025新居(荒井)宿から、白須賀宿、二川宿を通って吉田宿まで歩き、最後にちょっとだけ吉田城に寄り道。吉田城の始まりは、戦国時代初期、1505年に遡る。牧野氏によって築かれ、当時は今橋城と呼ばれていた。今川氏、松平氏(後の徳川氏)、戸田氏などがこの地を巡って激しく争ったが、1565年、徳川家康が今川氏から奪還すると、重臣の酒井忠次を城主に据えた。この時期に「吉田城」と改称され、武田氏に対する防御の拠点として重要な役割を担った。豊臣秀吉の政権下、天正18年(1590年)、家康の関東移封に伴い、池田輝政が15万石で入城し、現在の吉田城の原型となる大規模な拡張工事を行った。豊川を背後にした構えや石垣の整備はこの時期に進んだ。江戸時代に入ると、吉田城は「老中の登竜門」とも呼ばれるほど、幕閣の中枢を担う譜代大名が次々と城主を務めた。東海道34番目の宿場町である吉田宿と一体になり、交通・物流の拠点として繁栄した。明治維新を迎えると、吉田城の役割は「近世城郭」から「近代軍事施設」へと大きく変わる。明治維新後、各地の城郭は「廃城令(1873年)」によって軍の管轄下に入るか、払い下げられる運命を辿った。吉田城も例外ではなく、本丸周辺は陸軍の用地となった。明治8年(1875年)には名古屋鎮台歩兵第6連隊の第2大隊が置かれ、その後、明治17年(1884年)に歩兵第18連隊が発足。城内は完全な「兵舎」へと変貌した。兵舎の建設や軍事訓練の妨げになるとして、多くの櫓や門が取り壊された。日清戦争(1894年)から日露戦争(1904年)にかけて、豊橋は日本有数の軍事拠点として発展した。日露戦争後の明治38年(1905年)、陸軍の増強に伴い第15師団が豊橋に設置された。豊橋は「軍都」としての性格を決定づけられた。吉田城址の兵舎で訓練を受けた兵士たちは、豊橋駅から列車に乗り、戦地へと送り出された。とくに、日露戦争では、多くの若者が犠牲になった。太平洋戦争の終戦間近、昭和20年(1945年)6月19日の豊橋空襲により、市街地の大部分とともに、城内に残っていた軍事施設やわずかに残っていた古い建造物の多くが焼失した。吉田城址を占有していた軍事拠点の歴史は幕を閉じた。今は、豊橋公園とになっている。(説明は豊橋市の資料を参考)
【2026年3月20日☀️】10時開城で入りました!ちらほらお城ファンが来てました!最初の築城者は牧野古白(こはく)さんという方です!中の階段の角度は緩いです!登りやすい!彦根城みたいじゃないから安心してください!受付の方が非常に親切❤
続100名城のお城です。入館無料で展示物も多く、大きな公園内の一角にあるので、散歩も楽しめました。今回駐車場は、美術館の駐車場に停めさせてもらいましたが、美術館の入り口にある駐車券の機械に通せば3時間無料です。
素晴らしいお城と公園でした!市役所や美術館も隣接されて便利なところでもありますよ〜♪
城主は何度も変わっていますが、姫路城を修築する前の池田輝政の時代(1590-1601)に整備され、城下町が発展したようです。明治の廃城で建物は無くなりましたが、戦後、櫓の一つが復元されました。もともと天守閣は無かったようですが、復元された鉄櫓が天守として位置付けられていた説が有力のようです。鉄筋コンクリートの4階建の櫓は、午後3時まで入場できます。
この地は東三河の交通の要所であり、豊川(とよがわ)と東海道が交差する戦略的拠点でした。そのため、文亀元年(1501)頃、牧野古白によって築かれ、軍事的・政治的に重要な場所として成長し、また、時代ごとに有力な戦国大名たちの支配を受けました。桶狭間の戦い(1560)までは、今川義元の支配下にあり、地元の豪族や国人衆(牧野氏など)も今川氏に従属していました。桶狭間で今川義元が討たれた後、家康が独立し、吉田城を奪取して三河の支配を固めましたが、1570年代に一時的に武田軍が三河に侵攻しました。しかし、徳川方がこの地を取返し、命を受けた池田輝政が吉田城を大改修し(1586)、城郭や石垣、大規模な堀を整備し、戦国末期の構造にしました。池田輝政は姫路に転封となりましたが、三の丸、二の丸、本丸が備えられた中規模の吉田城は江戸幕府成立後、吉田藩の藩庁となりました。城名は江戸時代の「吉田藩」の名前にちなみ、実際の地名は「今橋」だったので「今橋城」とも呼ばれていました。築城者の牧野古白は室町時代後期の三河国の武士ですが、生没年は不詳です。牧野氏は清和源氏の流れをくむ名族で、のちに徳川家康に仕え、譜代大名として活躍します。特に有名なのが、江戸初期の名将牧野康成で、越後長岡藩7万4千石の藩主にもなり、幕末まで名家として続きました。
三河支配の重要拠点として争奪戦が繰り返された城。江戸時代には三河吉田藩の藩庁となる。東海道の重要な防衛拠点とされた為、有力な譜代大名が治めたとある。城跡には石垣や模擬櫓が建つ。豊川越しに見る鉄櫓は格好良い。
| 名前 |
吉田城 |
|---|---|
| ジャンル |
/ / |
| 電話番号 |
0532-51-2430 |
| 営業時間 |
[火水木金土日] 10:00~15:00 |
| HP | |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
|
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吉田城の前身は牧野古白によって1496年頃に築かれた今橋城です。その後、今橋の地名は吉田に改められました。武将たちによる激しい争奪戦が繰り広げられたのち、松平(徳川)家康は酒井忠次を城代に置きました。1590年豊臣秀吉の命令で家康が関東に移ると池田照政(輝政)が吉田城主となり、城域の拡張や城下町の整備を行いました。最盛期の吉田城は全国屈指の規模を誇り、歴代藩主には幕府の要職を務めるものが多くいたことから『出世城』とも呼ばれています。石垣や土塁など多くの遺構が残っており、1954年に模擬復興された鉄櫓(くろがねやぐら)が吉田城の象徴としてかつての威容を誇っています。また城址の主要部分は2021年に豊橋市指定史跡となりました。