吉田城跡で感じる歴史の重み。
吉田城 鉄櫓の特徴
東三河の交通要所に位置する歴史的な吉田城です。
1954年に模擬再建された黒金櫓が見どころです。
石垣に囲まれた広場で手筒花火が開催されています。
三河支配の重要拠点として争奪戦が繰り返された城。江戸時代には三河吉田藩の藩庁となる。東海道の重要な防衛拠点とされた為、有力な譜代大名が治めたとある。城跡には石垣や模擬櫓が建つ。豊川越しに見る鉄櫓は格好良い。
吉田城の黒金櫓(くろがねやぐら)は、1954年(昭和29年)に模擬再建された隅櫓です。元々の黒金櫓は、天守が倒壊した後に天守の代わりをしていたと考えられています。黒金櫓は木造の隅櫓であり、内部は簡易的な資料館となっています。1954年に産業文化大博覧会の開催に合わせて再建され、現在の黒金櫓は吉田城のシンボルとなっています。また、黒金櫓を支える石垣は、池田輝政が城主だった頃(16世紀末)のものであることが、2005年の修復の際に判明しました。
眼下に豊川が映える本丸城復元か模造してほしいです!無料で入れます!御城印は市役所1階へ。
市役所に隣接しており、緑豊かで非常に気持ちの良い公園。公園内が落ち着いた空間になっており、散策している人が多い印象であった。堀が非常に深く見ごたえもあり、散策するだけで楽しむことができたと思う。市役所の中にはファミリーマートがあるので、ファミリーマートで弁当買って公園の中で食べているのも良いかもしれない。
城址としての体裁が保たれているのは本丸とその周辺に限られるものの、豊川を天然の堀とした城址北側の景観は、池田輝政が城を増築した頃から継承されてきたものです。明治の廃城令の後、帝国陸軍の歩兵第十八聯隊が置かれ、戦後は公園、公共施設としてあらためて整備されたため、城址としての見ごたえにはさほど期待していなかったのですが、本丸周辺は内堀(現在は空堀)、石垣の保存状態がよく、意外と楽しめました。なお、二〇二五年一月に訪れた際は、石垣の修復工事のため一部区画の立入が禁止されていて、今後の見ごたえ向上にも期待が持てそうです。城址(公園)内には入口の歩哨詰所跡、正門跡をはじめいくつ陸軍施設だった頃の遺構も点在していて往時をしのべます。豊橋駅から歩けない距離ではないものの、億劫であれば路面電車の利用が便利です。豊橋市内にはこれぞというほどの観光名所はないものの、公共交通機関で周辺にアクセスするには便利な場所なので、合間に立ち寄るには便利です。
吉田橋の上流豊川の畔の高台に立つ吉田城。九つ存在した櫓の一つ鉄櫓(くろがねやぐら)が復元されて資料館となっていて精巧な吉田城のジオラマや歴史に関する展示が充実しています。遺構は堀や石垣などがリアルに面影を残していますが現存する建物は有りません。因みに1590年から1600年まで城主を務めた池田輝政は関ヶ原の戦後あの白鷺城とも呼ばれる美しい姫路城を完成させた人物(☆▽☆)ルーツとスピリットがここに有りました!見晴台からの豊川の眺望がとても良く遊歩道の散策も楽しめます(人*´∀`)。*゚+
石垣が素晴らしい城でした。勢力が入れ替わり立ち替わりとなったところですが、要衝の地として大事にされてきたようです。裏手の川と石垣がとくに美しいです。
三方ヶ原の戦いの前年の1571年、信玄は遠州の高天神城を攻めるが落とすことができず、虚をついて東三河へ侵攻するも(二連木城の戦い)、背面を豊川/朝倉川に守られた堅固なこの吉田城を落とすのは容易ではないと判断し、兵を引いたと言われるその堅固さがよく分かり、思わず頷いてしまいます。見どころは、石垣と空堀、豊川の眺めかな…
三河国東部の要の城として、徳川家康と深い関わりのある城。最初は1505年に国人領主の西郷氏が築城し、安城松平氏や今川氏等の支配を経て1565年以降は三河を統一した徳川家康の支配下となり重臣の酒井忠次が入った。豊臣政権下では家康の関東移封後、家康の娘婿の池田輝政が支配下においた。江戸時代以降は譜代の大名が入封し浜松城同様に出世城と呼ばれた。天守閣はなく、かわりに黒鉄櫓を代理天守としていたらしく、櫓とは思えない重奏な造りである。
名前 |
吉田城 鉄櫓 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0532-51-2430 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.9 |
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この地は東三河の交通の要所であり、豊川(とよがわ)と東海道が交差する戦略的拠点でした。そのため、文亀元年(1501)頃、牧野古白によって築かれ、軍事的・政治的に重要な場所として成長し、また、時代ごとに有力な戦国大名たちの支配を受けました。桶狭間の戦い(1560)までは、今川義元の支配下にあり、地元の豪族や国人衆(牧野氏など)も今川氏に従属していました。桶狭間で今川義元が討たれた後、家康が独立し、吉田城を奪取して三河の支配を固めましたが、1570年代に一時的に武田軍が三河に侵攻しました。しかし、徳川方がこの地を取返し、命を受けた池田輝政が吉田城を大改修し(1586)、城郭や石垣、大規模な堀を整備し、戦国末期の構造にしました。池田輝政は姫路に転封となりましたが、三の丸、二の丸、本丸が備えられた中規模の吉田城は江戸幕府成立後、吉田藩の藩庁となりました。城名は江戸時代の「吉田藩」の名前にちなみ、実際の地名は「今橋」だったので「今橋城」とも呼ばれていました。築城者の牧野古白は室町時代後期の三河国の武士ですが、生没年は不詳です。牧野氏は清和源氏の流れをくむ名族で、のちに徳川家康に仕え、譜代大名として活躍します。特に有名なのが、江戸初期の名将牧野康成で、越後長岡藩7万4千石の藩主にもなり、幕末まで名家として続きました。