敵中突破の英雄、島津義弘陣跡。
島津義弘陣跡の特徴
島津義弘陣跡は敵中突破の起点です。
静かな環境で歴史を感じるスポットです。
歴史好きには感無量の場所となっています。
関ケ原の戦い W西02島津義弘陣跡-----説明文より-----島津義弘隊1千5百余は、未明までに関ケ原へ入り、この地から北西約250メートルの薩摩池付近に陣を敷いた。二番備えとして石田三成の側面の守りと、北国街道の押さえを任される。開戦後は、自ら攻撃に出ることはなく、自陣に近づく者は東西両軍にかかわらず打ち払う姿勢をとった。三成からは幾度も参戦を要請されたが、使者として訪れた三成の家臣・八十島助左衛門が下馬しなかったことを無礼として、激怒し追い返す。その後、三成自身が説得に来るも、「今日の儀は、面々切に手柄次第に相働くべく候※」と呼応しない。一進一退の攻防が続く中、小早川秀秋の寝返り戦況は一変。東軍の猛攻に耐え切れなくなった西軍諸隊は次々に敗走する。孤立した島津隊へ東軍諸隊が迫る中、義弘は討死を覚悟するが、甥の島津豊久に説得され、撤退を決める。西軍諸隊が背後となる西方の近江方面へ敗走する中、義弘は大胆にも、東軍諸隊が群がる正面を突破し、伊勢街道を南方に抜ける進路をとる。島津隊は徳川家康本陣に向かって猛烈な勢いで突撃した。※今日の合戦は、各々が好き勝手に手柄を立てられるよう戦いたい。
関ヶ原に行ったらどうしても行きたかったのが島津の陣でした。細い住宅街の道の奥にひっそりとある場所で駐車場もあります。解説や正面突破する図もあるので、とても分かりやすいと感じました。ここから命がけで薩摩まで君主を逃がした事で、後の明治維新に繋がる歴史のロマンを感じれる素晴らしい場所だと思います。
陣の中ではやや見つけにくいところにあります。この島津の陣からみると、小西の陣や三成の陣がすぐそこら辺にあったというのがわかります。関ケ原観光ガイドHPより「笹尾山・石田三成陣跡」より、南に約800m下った辺りが、「島津義弘陣跡」だといわれています。現在は神明神社の森が広がっており、この神社の裏側には「小池島津義弘陣所跡碑」があります。ここは合戦時、西軍布陣地のほぼ中央部に位置します。島津隊といえば、鉄砲を巧妙に使って戦ったことで有名です。陣中では壕も掘らず、柵も作らず、鉄砲隊は交互に入れ替わり狙撃し、騎馬隊を撃ち落としていたそうです。また、敵中突破の戦場離脱の話も有名ですが、それだけでなく、わずか800名程度ともいわれる少数部隊で、西軍を中央から援護していたという事実を踏まえて史跡を巡ると、陣跡の景色もまた違って見えてくるのではないでしょうか。
まさに松尾山の下の地。義弘が激戦を眺めつつ静観をした地。そして決死の退き戦を始めた地。松尾山は結構人がいましたが、ここは誰もおらず。私的にはこの古戦場巡りで最も気に入った場所なんですが。
開戦地の駐車場に車を停めて、歩いて出かけました。藪の中にある雰囲気のある場所です。驚いたのは、鹿児島の子どもたちが毎年取り組んでいる関ケ原戦績踏破隊の記念碑です。昭和35年から続いているそうで、本当にすごいことだと思います。
関ヶ原古戦場記念館の床面シアター(日によってはネットでの予約必須)を見たら、島津義弘の陣跡に来たくなりました。関ヶ原決着後の「島津の退き口(のきぐち)」、前方へ進軍して徳川家康を驚かすような前方退却。ただ、島津義弘の陣跡は場所が分かりづらいです。神社前の看板通りに、脇道に入って進みます。神社に入ってもたどり着けません。(`・ω・´)ゞ私のようにいつの間にか小西行長陣跡までたどり着き、そこの案内掲示板から、畑の脇を歩いて島津ののぼり旗を目指す裏技もあります。島津義弘陣跡から神社を横目にしつつ裏林を通り抜けると、敗走した石田三成の胸中などに何となく思いを馳せることもできます。のんびり関ヶ原一帯を散策するのおすすめです。
島津義弘陣地跡は、関ケ原の戦いにおける西軍の布陣地のほぼ中央部に位置しています。現在は神明神社の森が広がっており、この神社の裏側には「小池・島津義弘陣所跡碑」があります。島津義弘は、巧妙な鉄砲戦略で知られ、壕も掘らず、柵も作らず、鉄砲隊を交互に入れ替わり狙撃し、騎馬隊を撃ち落としていたそうです。また、関ケ原の戦いでは「島津の退き口」として知られる決死の退却戦を行ったことでも有名です。歴史の一端を感じることができる場所でした。
1600年9月15日の関ヶ原の戦いで西軍に所属して、笹尾山・石田三成陣跡より、南に約800m下った辺りが、「島津義弘陣跡」だといわれています。現在は神明神社の森が広がっており、この神社の裏側には「小池・島津義弘陣所跡碑」があります。ここは合戦時、西軍布陣地のほぼ中央部に位置します。島津隊といえば、鉄砲を巧妙に使って戦ったことで有名です。陣中では壕も掘らず、柵も作らず、鉄砲隊は交互に入れ替わり狙撃し、騎馬隊を撃ち落としていたそうです。しかし、重臣の吉川広家が東軍に寄っていたたも、戦場は少しも動かなかったのです。島津の退き口が有名です。世にいう「捨て奸(すてがまり)」の戦法で、前方へと突き進む。「捨て奸(すてがまり)」とは、本隊が退却する前に、小隊をその場に留まらせ、死ぬまで戦わせます。つまり、捨て駒としての足止め作戦です。小隊が全滅すれば、また違う小隊が死ぬまで戦います。この足止めを何度も何度も繰り返して、大将を無事に逃げ切らせるという作戦です。無事伊勢から堺まで逃げ切っています。鹿児島県日置市の青少年で組織する「関ヶ原戦績踏破隊」が夏休みにここに集まり、堺まであるいています。今までの生徒の名前が彫られた石碑が建ってます。アクセスはJR関ケ原駅より北西に徒歩15分です。
今は木が生い茂り、陣跡と呼ぶにはあまりに静かです。島津義弘と言えば世に言う「島津の退き口」が有名ですが、この地から東軍に突撃を敢行したとき、生きて薩摩に帰れる自信はあったのか定かではありません。
| 名前 |
島津義弘陣跡 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
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鹿児島県人としては絶対に外せない場所。関ヶ原合戦と言えば、島津の退き口(のきぐち)が必ず授業で習う。捨て奸(すてがまり)という命を惜しまない戦術で島津義弘を戦場から逃がしたという。おまんさあ、わっぜかきばったな。