旧太田の渡し跡、清々しい川の風景。
太田の渡し跡の特徴
中山道三大難所の一つ、歴史深い旧太田の渡し跡です。
木曽のかけはしとしての重要な役割を果たしてきました。
堤防を友達と歩きながら歴史を感じられます。
この難所に橋をかけた当時の人達すごすぎ😲
ここは古来、中山道三大難所として『木曽の棧 太田の渡し 碓氷峠がなくばよい』と詠まれた『太田の渡し場跡』です。因みに対岸には『今渡の渡し場跡』があり、お互いに双方が対になっております。真横に架かる『太田橋』の開通(昭和2年2月)まで渡船が続いたとのこと。時代の流れを感じさせる歴史的に興味深い場所です。
化石林公園から太田橋の橋台そばまで歩いた所に渡し場跡がありました✨✨川底が意外と浅めで驚きましたが、中央部を見渡せば、やはり深そうで水流が多そうなのは理解できました‼️清々しい事もあり、しばらく川面を眺めていたのが思い出されます🎵
❶【参考 中山道太田宿に生きた人々の系譜 1984年】すべり石昔の船着き場といわれるすべり石は今では木曽川畔の護岸工事で道路の下に埋められてその姿は見られない。古い昔は、渡船場の高札が此の所にたっていたという。直径4,6m 高さ4m この大きな岩石の上に小さな足跡のようなくぼみがあった。「 いっすんぼうしの足跡 すべり石にも上って見、帯をとりては友を呼ぶ、かたえの溜まりに水およぎ、今でもすべり石は動かない 」子供たちが帯を解いて上から下の友達を引き上げてあそんだという。北側には湧き出る清水で、綺麗な水たまりがあったので、キャキャと遊び戯れる児童を目にしたという。
『木曽のかけはし・太田の渡し・碓氷峠がなくばよい』と詠われた中山道の三大難所の一つ『太田の渡し』があった付近。今は石畳の一部が面影としてあります。太田橋下を流れる木曽川は全流程の中下流域にありますが、飛騨川と合流後になる為、まさに大河の様子を見せてくれています。木曽川と飛騨川はどちらも御嶽山流域に源流域があるため元々水量豊富な河川ですが雪解け水や降雨によって暴れ川になる気難しい川でした。現在は、河川ダムによって水量が調整されているので当時の流れの様子はうかがい知れないところがありますが、木曽三川の中でも最も規模と水量がある木曽川はさぞかし難所の渡しになっていたのでしょうね。1994年に木曽川が大減水した際に、ここ太田の渡し付近の川底から大規模な珪化木群が発見され、その後公園として整備された『化石林公園』の一部にあります。ですのでアクセスは車ですぐ近くまで行けるようになっています。『太田の渡し跡』自体ははっきり確認できるようなものではありませんが、河原から対岸の『今渡の渡し場跡』付近を眺めることが出来るので、その距離と流れの強さから『渡し稼業』のその大変さは感じ取れると思います。
「木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」と詠まれた中山道の三大難所の一つです。木曽川の流量は凄まじく、見ていて怖いくらいです。ここの渡船は命懸けだったのでしょうね。
看板を読みたくて行ったら看板が消えてました…帰ってきて…
〝木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい〟…と、中山道三大難所に数えられたここは〝旧太田の渡し跡〟です。太田宿は中山道六十九次の江戸日本橋から数えて五十二番目の宿場町、その手前、伏見宿を出て一里半ほどの所にこの〝太田の渡し跡〟が在ります。現在は僅かに石畳を残す程度だけしか往時の影を留める物は在りませんが、石畳に立ち川面を眺めた時、かつての人々の往来がイメージされてきます。渡船場は時代と共に何度も場所と姿を変えたそうですが、この渡船場跡は昭和2年(1927年)に隣の太田橋が完成するまで使われていたそうです。■ 一枚目の写真壱. 現場の案内看板…中山道の難所「太田の渡し」弐. 昭和2年ごろの渡し場の風景です。※ 背後に見えるの現在の左岸(美濃加茂市側)の堤防辺りでしょうか?またこの頃には、すぐ上流にある今渡ダム(着手 昭和11年/竣工 昭和14年)はまだ無くて、流れる水量も多くてかなりの急流だったのではないかと思います。この写真の撮影時は冬だったのでしょうか?分厚い防寒着を着込んだ人達が沢山乗っていて寒々とした雰囲気から当時の大変さが伝わってきます。参. 安藤広重画「東海道六十九次-太田の渡し-」広重もここを通ったのですね。松尾芭蕉も通ったようです(別記事にて)さすがに、この絵には富士山は描かれていませんが、代わりの山は「深田久弥の日本百名山」に選ばれている「恵那山」でしょうか?四. 往時の渡船場跡から対岸(可児市)を望みます。隣は「旧太田橋」・・少し上流には「新太田橋」があります。また、このすぐ上にはライン下りで有名な、日本ライン乗船場があります。かつては、ここから4キロほど下流の左岸(可児市側)にありました。■ 二枚目の写真壱. 渡船場へ向かう石畳が今も残っています。弐. 船着場手前に一箇所だけ、石畳ではなくキレイな敷石の場所がありました。この上に簡単な建物でも在ったのでしょうか?(料金所とか?)参. 船着場直前の下り坂です。かつてここは沢山の人の往来があったのでしょう。四. 参の場所の先端を横から見た写真です。当時は橋も無い、堤防も無く、魚は一杯いて、水は今よりも遥かにキレイで・・そんな世界だったのでしょう。
〝木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい〟…と、中山道三大難所に数えられたここは〝旧太田の渡し跡〟です。太田宿は中山道六十九次の江戸日本橋から数えて五十二番目の宿場町、その手前、伏見宿を出て一里半ほどの所にこの〝太田の渡し跡〟が在ります。現在は僅かに石畳を残す程度だけしか往時の影を留める物は在りませんが、石畳に立ち川面を眺めた時、かつての人々の往来がイメージされてきます。渡船場は時代と共に何度も場所と姿を変えたそうですが、この渡船場跡は昭和2年(1927年)に隣の太田橋が完成するまで使われていたそうです。■ 一枚目の写真壱. 現場の案内看板…中山道の難所「太田の渡し」弐. 昭和2年ごろの渡し場の風景です。※ 背後に見えるの現在の左岸(美濃加茂市側)の堤防辺りでしょうか?またこの頃には、すぐ上流にある今渡ダム(着手 昭和11年/竣工 昭和14年)はまだ無くて、流れる水量も多くてかなりの急流だったのではないかと思います。この写真の撮影時は冬だったのでしょうか?分厚い防寒着を着込んだ人達が沢山乗っていて寒々とした雰囲気から当時の大変さが伝わってきます。参. 安藤広重画「東海道六十九次-太田の渡し-」広重もここを通ったのですね。松尾芭蕉も通ったようです(別記事にて)さすがに、この絵には富士山は描かれていませんが、代わりの山は「深田久弥の日本百名山」に選ばれている「恵那山」でしょうか?四. 往時の渡船場跡から対岸(可児市)を望みます。隣は「旧太田橋」・・少し上流には「新太田橋」があります。また、このすぐ上にはライン下りで有名な、日本ライン乗船場があります。かつては、ここから4キロほど下流の左岸(可児市側)にありました。■ 二枚目の写真壱. 渡船場へ向かう石畳が今も残っています。弐. 船着場手前に一箇所だけ、石畳ではなくキレイな敷石の場所がありました。この上に簡単な建物でも在ったのでしょうか?(料金所とか?)参. 船着場直前の下り坂です。かつてここは沢山の人の往来があったのでしょう。四. 参の場所の先端を横から見た写真です。当時は橋も無い、堤防も無く、魚は一杯いて、水は今よりも遥かにキレイで・・そんな世界だったのでしょう。
| 名前 |
太田の渡し跡 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
0574-25-2111 |
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
|
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木曽川増水時2026/5/4撮影。