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諏訪郡桑原村(現在の諏訪市)に生まれ、江戸「立川小兵衛冨房」の下で宮大工の修業に励み、彫刻を「中沢五兵衛」に学んだ初代「立川和四郎冨棟(たてかわわしろうとみむね)」(1744/延享元年~1807/文化4年)は、1780(安永9)年の「諏訪大社 下社秋宮 幣拝殿」造営で名声を高め、1788(天明8)年 44歳でここ「手長神社」の建築に取り組んだという。その1700年代は、色彩を施さず欅の木目を活かす「素木造(しらきづくり)」の社寺建築が風靡した時代でもあったという。「拝殿」は、建物の屋根の棟に平行な長手方向をいう「桁行(けたゆき)」一間、建物の屋根の棟に直角の短手方向をいう「梁間(はりま)」一間で、社寺建築に広く採用されている寄棟造の上に切妻造を載せた屋根の「入母屋造(いりもやづくり)」、軒の一部の妻側三角形部分に造られた中央部が弓形で左右両端が反り返った曲線状の「正面軒唐破風(のきからはふ)」で、貫や台輪などが柱から突き出している部分をいう「木鼻(きばな)」は唐獅子、海老のように湾曲した梁の一種の「海老虹梁(えびこうりょう)」は上り龍と下り龍の丸彫、虹のように反りがある梁の一種の「虹梁(こうりょう)」は波・法螺貝・巻貝・蛤・鮑・栄螺などの彫刻が施された社殿で、当地が生んだ宮大工の名跡を知る上でも観照の機会を得たい社殿だ。