1783年の大噴火、希望の観音堂。
鎌原観音堂の特徴
日本のポンペイと呼ばれる鎌原観音堂は、歴史的にも重要な場所です。
天明の浅間山噴火で村が壊滅した際、避難所となった観音堂の石段が印象的です。
整備された観音堂では、災害の歴史を伝える貴重な資料も見ることができます。
境内には村人が三十三回忌供養のため建てられた供養塔、流され後年発見された延命寺石標、犠牲者の墓碑群などもあり、災害とその後の復興に関する史跡が集約されています。すぐ近くの資料館もあわせて見学すると理解が深まると思います。参道の前には多くの馬頭観音の石仏石塔が並び、交通の要衝だったことがうかがえます。
天明3年(242年前)浅間山の噴火で大災害になった村が協力して復興してきて今があります。歴史は私たちご先祖さまの歴史であり、これからも災害などは起こると思いますが人が領土や宗教などが原因で争う世の中ではなく、協力して助け合って暮らしていける世の中にしたいですね。
1783年(天明3年)8月、浅間山の大噴火に伴って発生した岩窟なだれが鎌原村を襲い、逃げ遅れた多数の住民が土砂に埋まりました。現在の地面の7m 下が当時の生活面だそうです。火山災害の教訓がここにあります。
群馬県指定史跡天平3年 浅間やけ遺跡浅間山が遥か遠くに見えて、その火山流がここまで届いたのかと驚きます。天平3年(1783年)に起きた浅間山の噴火で、人口570人の集落で、人口の85%の477人が土石流によって犠牲となった。生存者はわずか93人、、この鎌倉観音堂境内入り口の階段は、昭和54年に発掘調査され、地表に残された15段と、埋没した35段の計50段で、土石層の厚さは約6m。あと1歩のところで襲い来る土石流から逃れることが出来なかった女性2名の遭難者の遺骨が見つかった。現在は、紅い橋がかかっていますが、その下に昔の古い階段が残されていて、当時はもっと下まで階段があったと推測できます。
まさに日本のポンペイ。発掘された焼けた建物… 埋もれた階段、そしてその途中で見つかった人の写真など、遠くに見える浅間山と合わせて自然の大きさ、恐ろしさを感じました。旅の途中、たまたま見かけて訪問しましたが、見逃さなくてよかった。次回は是非隣の博物館にも伺いたいです。ブラタモリでも来られていたようですね。
天明の浅間山の大噴火の際に、村で唯一残った建物で、当時高台にあったこの観音堂の石段を駆け上がり、九死に一生を得た村人はほんの一握りで、50数段もあつた石段が、土石なだれに襲われて10数段になってしまつたと言うのだから凄まじい…。
衝撃的な写真なども飾られており、色々考えさせられます。あまり広くないですが、裏に資料館などもあるので立ち寄ってみる価値はあります。
整備されていて、売店もありました。裏に資料館があり歩いて行けました。そちらを見てから行くと歴史がよくわかります。
浅間山頂上付近から見える蒸気がいまだ生々しさを感じさせる。山体崩壊した山姿もまるで最近のようにも感じられる。噴火にあった村の歴史はテレビでも書籍でも有名な話。武田側の士気が下がったであろう浅間山の噴火も思い出させる。事後も嬬恋村の生き残りが土地から離れず復興/供養。その後の現代も変わらず子孫の方々が供養、嬬恋の地域おこしに尽力している。他地域では小さな事であろう事も順を追って地道にコツコツ進めて行こうという実直さに感動すら覚える。長居する場所ではないですが訪れる価値がある場所。
| 名前 |
鎌原観音堂 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
0279-97-3852 |
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
|
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天明3年の浅間山大噴火がもたらした悲劇… 当時の人々を思うと手を合わせずにはいられませんでした。その象徴的な観音堂、ひっそりとしたたたずまいが、なおさら感慨深かったです。