日本三大山城、高取城の冒険。
高取城跡の特徴
日本三大山城の一つで、標高583mに位置する高取城跡です。
充実したパンフレットには、縄張りや石垣が詳細に記載されています。
壺阪寺からのハイキングコースが整備され、アクセスが便利です。
ものすごく強そうです。城址のあちこちで見かける幟には「日本最強の城」と書かれていて、どういう基準での最強かは判然としないものの、そうと思わせるだけの貫禄は十二分にあります。南北朝時代に越智氏によって城が築かれ、筒井順慶、次いで豊臣秀長重臣の本多利久により近世城郭として整備されました。利久の子の俊政は豊臣秀吉の直臣に取り立てられるも、秀吉の死後は徳川家康につき、関ケ原の合戦に際しては上杉討伐に参陣します。主力の不在を衝いて、石田三成の差し向けた大軍が高取城を包囲しますが、留守を預かる俊政の従弟の正弘は堅城に拠って敵を撃退します。俊政の子の代で本多氏は無嗣改易となりますが、その後植村氏が入府して、明治に至るまで代々の城主をつとめます。建物のことごとくは棄却され、いまとなっては石垣を残すのみとなっていますが、往時の威容は容易に想像できます。最寄りの近鉄吉野線壺阪山駅からの主な登城ルートは二つあって、一つは壺阪寺前までバスで移動して、そこから壺阪口門を経て本丸に至るか、徒歩で旧城下町の土佐町を経て、かつての登城道をなぞって本丸に至るかです。前者は比高が低いものの、ただただ険しいだけの山道が続きます。一部に竪堀と見られる遺構はあるものの、壺阪口門近くに至るまでお城らしさに欠けます。ただ、壷阪寺とあわせて楽しめるのは魅力です。後者は比高も距離もありますが、城下町と堅城の名残を存分に楽しめます。登山口にあたる砂防公園(ダム)の辺りまでは舗装道路で、公園には駐車場とトイレがあります。そこから先は山道が続くものの、危ないところはなく、そこかしこに遺構があります。ただ、石垣は補修が追いついておらず、「落石注意」と書かれた看板が落石に押しつぶされていたりもするので、無闇に近づかないほうがいいでしょう。高取城は日本三大山城のひとつとされていますが、他のふたつ、備中松山城、美濃岩村城と比べても道は険しく、実質登山です。売店も自販機もなく、トイレの数も限られています。夏場は熱中症対策にも留意する必要があります。ただ、苦労してでも見る価値のある史跡です。私が訪れたのはちょうど観桜期で、砂防公園の桜が見事でした。天守台辺りにも桜はあって、郡山城などに比べればささやかなものの、息を切らせながら山道を登ってきたアラフィフのおっさんには何よりのご褒美でした。紅葉の名所でもあるようなので、その頃にまた行きます。
日本三大山城と呼ばれる標高500mを超える場所にある山城です。城跡となっていますが、山の上から一望出来る広大な景色や、樹齢700年を超える大木など、見どころがたくさんあり、とても良い場所です。
日本三大山城の一つで日本最強の山城「高取城」をトレッキング。壷阪山駅からゆっくり歩いて2時間ほどで着きました。標高583.6mにかつて建てられていたお城で、明治4年(1871年)の廃藩置県の結果、のちに取り壊されてしまいました。現在では山頂にものすごい規模の石垣が残っている状態で、城址であるけれど圧巻でした。壺阪山駅からの道中の公園には移築された松ノ門があり、山道には猿石、水堀、眺望できる国見櫓など見所がたくさんあります。帰りは壺阪寺方面から下山で、寺には寄らずそのまま壺阪山駅まで歩いて帰りました。ゆっくり見て回っても5時間ほどのコースでした。訪れられる際は装備をしっかりして登った方が良いです。
最初、ここに行くのを諦めかけてましたが、夢創館に100名城のスタンプを押しに行ったら、そこの係の方が路は狭いが車で行く事が可能と言われたので行く事にしました。一言行って良かったです。本当に日本最大の山城、クルマを降りて頑張って山を登り、到着したのが石垣の数々、これは行って見ないと判らないと思います。機会があったら行って見て下さい。
標高583m、観光①🅿️より比高447m黒門跡でもある宗泉寺横の登り口に無料パンフレットがあった👍️縄張図付の説明板も随所に建ってるパンフにある赤色立体図が鮮明で削平地はモチロン堀切から竪堀まで写し出されてて重宝した当然 立体図通りに石と土の芸術遺構を数々見ることができた🤩👌初めて登った時に車で壺坂口近くまで行けたのは遥か二十ウン年前😅..2度目の今回は念願の麓から徒歩で 登って歩き回り🚶♂️8時間費やした倒木が多いトコロがあったけど それはそれで探索が楽しい♬🕺丸1日 以上 楽しめる素晴らしき日本一?🎌の山城ですっ👯
高取城は日本三大山城の一つです。ちなみに残り二つは岐阜県の岩村城と岡山県の備中松山城です。高取城は4つ見どころがあります。1。重要文化財の猿石がある(私は行ってません)2。水堀がある(山城で水堀があるのはここだけ)(私は行ってません)3。残る建物はないが、多くの櫓台や門を支えていた石垣が綺麗に残っている。(ちなみに高取城には門が33個もあったとされる)4。本丸にはかなり大きい天守台が残っている。高取城の石垣は野面積みや算木積みが多く、ほとんどが高く積まれています。(高石垣と言います) また、大手門や十三間多門などは枡形虎口になっていて行手を阻む大きな役割を果たしています。また、太鼓櫓や新櫓などがかつて立っていた石垣も綺麗に残っていて、お城の堅固さを今に伝えています。
南法華寺(壺阪寺)からは、東に1㎞程行った高取山山頂(標高536m)に築かれた高取城は、南北朝時代の1300年代が始まりだそうです。現在は建造物は残っていませんが、曲輪の連なった城内は周囲約3キロと広大で、日本国内では最大の山城だそうです。備中松山城(岡山県)、岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられ、国の史跡となっています。御城印が観光案内所「夢創舘」にて販売していますので、300円で購入してきました。
日本三大山城のうちのひとつ、高取城跡です🏯縄張りも石垣もめちゃめちゃしっかり残っていて、オススメです。車でわりと近くまで行くことができて、車もそこそこ停められますが、落ちたら死ぬであろうわりと狭い道路を通るため、車幅ギリギリを100mくらい余裕でバックできない方は、自転車で行ってください。もちろん昼間でもライトオンです。山城あるあるで、夏は虫がいっぱいいます。結構歩いて登ることにはなりますが、蚊がまとわりついてきて、休憩することはできません。基本的に、一気に登るしかありません。城郭まで辿り着くと、木は伐採されているため蚊はいなくなりますが、今度は蜂や虻がブンブン飛んでいます。座ってゆっくり休むことはできません。そういうわけで、虫除けスプレーは持っていった方がいいかも。ちなみに、帰りにはまた蚊がいます。あと、紀伊半島にはいないんだろうと信じているものの、熊よけの鈴があれば安心かと。とにかく、素晴らしいお城です。オススメです。
近鉄壺阪山駅から徒歩で約2時間ぐらいで登城か、壺阪寺バス停から徒歩1時間ぐらいで登城か、路上駐車になりますが車で近くまで行って登城出来ます。お城は1330年代に築城されたそうです。遺構は石垣、空堀、土塁等があります。特に石垣は見応えがあり、昔の人の技術力の凄さに驚きました。日本三大山城と言われていますので装備はちゃんとして登った方がいいです。秋は紅葉が綺麗らしいので又訪れたい場所です。明日香の遺跡等も近くにありますので1日掛けて散策したいです。
名前 |
高取城跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0744-52-1150 |
住所 |
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HP |
http://www.town.takatori.nara.jp/contents_detail.php?frmId=236 |
評価 |
4.4 |
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備中松山城、美濃岩村城と共に日本三大山城の一つとされる大和高取城の跡にやって来た。因みに、今まで訪れた戦国時代の見応えのある山城には、豊後の岡城や出雲の月山富田城、但馬の竹田城など壮大で重厚な石垣群で出来た山城があったが、これらの城が三大山城に入らないのは、日本三大山城の条件に、近世(江戸時代)まで機能していた城という条件があるからである。この三大山城の特徴と言えば、松山城は現存天守があることである。現存12天守の内、唯一の山城ということになる。岩村城(標高721m)と高取城(城下からの比高446m)は天守や櫓など建物は一切ないが、幾重の枡形虎口の石垣や高石垣など石垣群に圧倒されるものがあり、城下の街道の先に山城が位置するのがまた好い感じである。私が高取城跡に訪れた日は、運よく県道119号線の道路補修工事が休工であったため、壷坂口門近辺まで車で行けた。車は行き止まりの広場(5~6台OK)に停めた。途中道が狭いと聞いていたが、私が今まで車で登った田舎の山城に比べれば、意外と整備されていて通り易い道であった。(個人の感想であるが・・・)城内も大手門から二ノ丸、本丸かけて、夏の割には草も刈られていて見学し易かった。今回の私の見学ルートは、臺坂口門跡から入り大手門跡前まで行き、下って千早門跡、宇陀門跡、松ノ門跡、矢場門跡、ここから国見櫓へ廻り、戻ってニノ門、猿石、水堀などを見学した。その後、大手門前まで戻り(上り)、そこを左へ下り、吉野口門跡まで行って、再び大手門前まで戻った。そしていよいよ大手門跡から二ノ丸・本丸へ入り、新櫓跡脇から七ツ井戸へ下り道路(一般車両進入禁止道路)へ出て、車まで戻った。ジックリ見学したので、3時間位掛かってしまったが、後悔はない。感想は、大手門跡から二ノ丸跡、十五間多門跡、太鼓櫓跡・新櫓跡、本丸虎口跡、天守台跡などの石垣が感動ものである。また、ニノ門跡、矢場門跡、松ノ門跡、宇陀門跡、千早門跡などにも石垣が確り残っていて、城域全体が素晴らしく、見応えがある城跡である。また、国見櫓跡からは、大阪市内の高層ビル群まで見えたのが驚きであった。さて、高取城の歴史であるが、元弘2(1332)年越智邦澄[おちくにずみ]が貝吹山城の支城として築城した。天正8(1580)年織田信長の命により一旦廃城となった。信長の死後、筒井順慶が郡山城の詰の城として復興し、天正17(1589)年羽柴秀長の家臣本田利久が秀長の命により大改修を行った。寛永17(1640)年徳川譜代の家臣植村家政が2万5千石で入部、高取藩初代藩主となり、幕末まで続いた。蛇足だが、石高2万5千石でよくもこんなに大規模な山城を約230年間も確りと維持できたものだと感心する。増税ばっかりする今の日本の政治家には見習って欲しい。《2024.8.27訪問》