幕末の激闘を偲ぶ、凌霜隊の石碑。
凌霜隊顕彰碑の特徴
凌霜隊顕彰碑は幕末の歴史を感じられる場所です。
機会があれば、ぜひ歴史的価値を体感してください。
立派な石碑モニュメントが訪れる人々を迎えます。
幕末、国内では大規模な内戦がおこりました。いわゆる戊辰戦争です。日本は一年半にわたり幕府側と新政府側に二分されて戦ったのです。幕末時の郡上藩藩主は青山幸宜で、祖先は三河徳川家の譜代家臣でした。しかし郡上藩は新政府軍に与したのです。それに反発したのでしょうか、江戸家老の息子、朝比奈茂吉(当時17歳)を隊長とする「凌霜隊」が組織されました。凌霜隊一行は脱藩すると大鳥啓介らの指揮する旧幕府軍に加わり、東北地方を転戦したのです。会津若松城では白虎隊とも一緒に戦いましたが落城の時に降伏、郡上八幡へ送還されました。当初、郡上藩は隊士を処刑するつもりでした。しかし新政府の命令で彼らは謹慎に減刑されます。翌年には新政府から赦免されるのですが、今度は同郷の人たちが隊士たちに迫害を加えます。行き場を失った隊士の多くは故郷を離れることになりました。凌霜隊結成は幕府側が勝利した場合を考慮した、藩中枢部の判断だったとも言われています。関ヶ原の戦いのとき、家中を二つに分け東軍と西軍に参戦させた真田家の故事「犬伏の別れ」に倣ったと伝えられるのです。しかし現在、その詳細を知るものは誰もいません。ちなみに凌霜隊員の平均年齢は31歳、白虎隊の平均年齢は17歳でした。2025.3.5
凌霜隊の立派な石碑モニュメントです。隊士の名前も彫り込んでありました。
幕末の郡上青山藩内で、幕府側につくか新政府側につくか意見が分かれ新政府側につくことを藩として決定したが、江戸屋敷内の45人が脱藩して幕府側の応援として会津に向かったのが「凌霜隊」でした。会津若松城(鶴ヶ城)では白虎隊と共に戦ったが、降伏後は罪人として扱われて郡上に残った者はほとんどいなかったそうです。その「凌霜隊」を慰霊する碑で、隊員全員の名前が記されています。
名前 |
凌霜隊顕彰碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.2 |
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凌霜隊は、慶応4年、1868年に郡上藩の脱藩士によって組織された部隊で、戊辰戦争において旧幕府側として戦った隊の慰霊碑。