歴史の刻まれた凌霜隊の碑。
凌霜隊顕彰碑の特徴
凌霜隊顕彰碑は幕末の歴史を感じられる場所です。
機会があれば、ぜひ歴史的価値を体感してください。
立派な石碑モニュメントが訪れる人々を迎えます。
凌霜隊は、慶応4年、1868年に郡上藩の脱藩士によって組織された部隊で、戊辰戦争において旧幕府側として戦った隊の慰霊碑。
幕末、国内では大規模な内戦がおこりました。いわゆる戊辰戦争です。日本は一年半にわたり幕府側と新政府側に二分されて戦ったのです。幕末時の郡上藩藩主は青山幸宜で、祖先は三河徳川家の譜代家臣でした。しかし郡上藩は新政府軍に与したのです。それに反発したのでしょうか、江戸家老の息子、朝比奈茂吉(当時17歳)を隊長とする「凌霜隊」が組織されました。凌霜隊一行は脱藩すると大鳥啓介らの指揮する旧幕府軍に加わり、東北地方を転戦したのです。会津若松城では白虎隊とも一緒に戦いましたが落城の時に降伏、郡上八幡へ送還されました。当初、郡上藩は隊士を処刑するつもりでした。しかし新政府の命令で彼らは謹慎に減刑されます。翌年には新政府から赦免されるのですが、今度は同郷の人たちが隊士たちに迫害を加えます。行き場を失った隊士の多くは故郷を離れることになりました。凌霜隊結成は幕府側が勝利した場合を考慮した、藩中枢部の判断だったとも言われています。関ヶ原の戦いのとき、家中を二つに分け東軍と西軍に参戦させた真田家の故事「犬伏の別れ」に倣ったと伝えられるのです。しかし現在、その詳細を知るものは誰もいません。ちなみに凌霜隊員の平均年齢は31歳、白虎隊の平均年齢は17歳でした。2025.3.5
凌霜隊の立派な石碑モニュメントです。隊士の名前も彫り込んでありました。
幕末の郡上青山藩内で、幕府側につくか新政府側につくか意見が分かれ新政府側につくことを藩として決定したが、江戸屋敷内の45人が脱藩して幕府側の応援として会津に向かったのが「凌霜隊」でした。会津若松城(鶴ヶ城)では白虎隊と共に戦ったが、降伏後は罪人として扱われて郡上に残った者はほとんどいなかったそうです。その「凌霜隊」を慰霊する碑で、隊員全員の名前が記されています。
| 名前 |
凌霜隊顕彰碑 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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「凌霜隊(りょうそうたい)」は、明治維新期(特に戊辰戦争時)に活動した、岐阜県の郡上藩に属する武士たちの部隊で、非常に興味深く、悲劇的な運命をたどった歴史があります。⸻概要• 所属藩:郡上藩(美濃国、現在の岐阜県) • 活動時期:戊辰戦争(1868年) • 隊員数:約45名ほど • 隊長:朝比奈茂吉(あさひな もきち)、当時17歳 • 結成背景:郡上藩の藩論が「新政府(朝廷側)に恭順するか、幕府側(佐幕派)を支援するか」で対立していた中、江戸藩邸の家老・朝比奈藤兵衛の子・茂吉を隊長として、幕府恩義を重んじ「義」を貫く者として旧幕府側に味方する部隊として組織された。 ⸻主な戦歴・行動1. 江戸藩邸で脱藩・結成凌霜隊は江戸藩邸にいた藩士を中心につくられ、「無届脱藩」の形で行動を始めたとされます。 2. 会津(鶴ヶ城)への進軍会津藩を支援するため北上し、会津若松城への籠城戦で白虎隊などとともに「西出丸(城の一部)」の守備を担った。激しい戦闘を行った。 3. 会津での敗北と帰還会津の総攻撃を受けて戦い抜いた後、新政府軍に包囲され、最終的に降伏。隊員は捕らえられ、郡上藩へ送還された。 ⸻結末とその後• 郡上へ戻った後:隊員は藩から「藩命に背いた」「反政府的な活動をした」として処分を受けた。投獄されたり禁固されたり、自宅謹慎や幽閉のような状態に置かれた。 • 赦免:最終的には明治2年・明治3年ごろに謹慎・禁固が解かれ、赦免された者もいた。 • 隊員のその後:多くは郡上に留まらず、故郷を離れざるを得なかった、厳しい扱いを受けたという記録があります。地域での名誉・評価も長らく賛否が分かれていたようです。 ⸻意義と現代での評価• 地元・郡上では「凌霜隊」の物語は地域の誇り、また苦悩の歴史として語り継がれています。戦記「心苦雑記(しんくざっき)」など、隊員が残した記録が貴重な史料となっています。 • また、郡上おどりの歌詞にも「凌霜隊伝」として登場するなど、文化的にも地域に根付いた存在です。 • 最近でも書籍の再版や、150周年記念プロジェクトが行われるなど、見直し・普及の動きがあります。