山吹城を攻めた歴史の舞台。
七騎坂の特徴
毛利元就が1万4千騎を率いて攻めた山吹城が近くにある歴史的な場所です。
永禄2年に起こった重要な戦いの舞台となった史跡として知られています。
出雲の尼子晴久から石見銀山を取り戻すための歴史的背景がある場所です。
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名前 |
七騎坂 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.3 |
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永禄2(1559)年、出雲の尼子晴久に奪われた石見銀山を取り戻すため、毛利元就は1万4千騎を率いて銀山と向かい合わせにそびえ立つ山吹城を攻めました。山吹城を守っていた本城越中守経光の激しい抵抗に遭い、毛利軍は撤退を余儀なくされました。本城軍の追撃中、降露坂(祖式城に通ずる矢滝道と温泉津町湯里に通ずる大江道との分岐点)で、元就の側近にいた渡辺太郎左衛門通は、湯里の西田に出て山をさらにひとつ越して、温泉津町小浜の七騎坂で、「自分が元就だ」と叫んで同士と共に壮烈な死を遂げました。7人の武士が討死した場所は、現在は七騎坂といい、その下をJR山陽本線が走り、七騎坂トンネルといいます。(現地説明板より)ただし、この戦いは天文12(1543)年の大内氏の第一次月山富田城の戦いからの撤退戦ともいい、場所も降露坂(降路坂)近くの大江坂七曲がりという説もあります。