信濃日光の壮大な歴史。
若澤寺跡の特徴
信濃日光と称された壮大な寺跡が残る場所です。
江戸時代の由緒ある新義真言宗の古刹を感じられます。
夏には避暑地として訪れるのに最適なスポットです。
信濃日光と呼ばれた程の、大きな寺跡も信州の人はほとんど知らない。山の中に礎石と首を折られた石仏が並ぶ不思議な空間。 カモシカが神様の様に佇んでいました。
かつて信濃日光と言われた壮大な伽藍は、明治初めの廃仏毀釈により取り壊されて、現在は石垣やわずかな石仏、建物の礎石などだけが残された廃寺です。建物の一部は松本平のいくつかの寺院に移築されているものもあります。麓にある田村堂もその一つで、現在重文に指定されています。麓からは、丁石と呼ばれる道標が1町((約108m)ごとに建てられていて、その一部は今も参道に残されています。
古刹跡、花が綺麗。
かつての古刹跡、それなりに整備されている。
若澤寺のことを知れば当時の規模の大きさが壮大なものであったことが分かります。田村堂も廃仏毀釈まではこちらの最上部にあったようです。
夏に行けば最高の避暑地。
現地の案内看板をそのまま写す。『若澤寺跡若澤寺は、山号を慈眼寺あるいは水沢山といい、新義真言宗京都智積院末の寺院であった。江戸時代には広大な伽藍が整備されて多くの人が訪れ、「信濃日光」とまで呼ばれるほどであった。しかし、明治初年の廃仏毀釈により廃寺となり、多くの建物は取壊されたり移築されたりした。現地に残っているものは、石垣と一部の礎石だけであるが、その規模の大きさは、当時の寺のにぎわいを示している。寺伝によれば、天平勝宝年間(749~757)に行基菩薩によって寺が開かれ、田村将軍によってさらに大きくしたといわれている。新府統記には当時は現在地より2キロほど山中に入った「元寺場」と呼ばれる場所に寺院があったと書かれ、室町時代に現在の場所に移ったとされている。江戸時代末期は、社寺参拝の旅が盛んになった時代で多くの人が訪れ、「東海道中膝栗毛」の作者十返舎一九も参拝して、「水澤観音利益・雑食橋由来」という絵草子を世に紹介した。上に示した図は江戸時代に描かれた「若澤寺一山之略絵図」に一部加筆した絵図である。下の図は、発掘調査によって明らかになった全体図(平成15年作成)である。これらを見比べてみると、絵図の正確さが証明されたといえる。』
名前 |
若澤寺跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
4.4 |
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若澤寺(にゃくたくじ)は山号を慈眼山または水沢山といい、江戸時代には「信濃日光」と呼ばれた新義真言宗の由緒ある寺院でした。しかし明治四年に松本藩の廃仏毀釈令により寺は壊され仏像等は散逸し、建物も周辺の寺に移され現在は広大な敷地に石垣などを残すのみです。頂部の田村堂からは嘗て隆盛を極めた寺院の跡地が一望でき、首を打ち落とされた石仏に郷愁の思いを禁じ得ません。