加藤清正公が鎮座する神社。
野津原神社の特徴
加藤清正公が開いた道の歴史を感じられます。
鳥居には加藤神社の刻印があり、目を引きます。
鳥居前には車を2台停められるスペースがあります。
R442を野津原に向かい七瀬川を渡りセブン過ぎの交差点を右折しR442の旧道に入り進むと右側屋並みの中に神社は鎮座している。神社の由緒等は掲示してある。通りの社号標から参道に入ると石灯籠群、鳥居、石段を上ると手水舎、坐する狛犬、御社となる。御社は瓦葺屋根入母屋造りの庇のある向拝で周囲を格子で囲った拝殿、渡殿、本殿の造りである。右側に神楽殿も置かれている。由緒等から当神社は多くの御祭神が鎮座しており明治の一町村一社制度(地域の多くの神々が合祀によりまとめられた)また社格制度等の神社の歴史を一部知ることができる。素盞鳴命を祀り疫病退治、厄払い等を祈願する神社として県内では多くが八坂神社の名で鎮座しており相殿の加藤神社は熊本県内では見かける神社だが大分県内はほとんど記憶がない神社名である。詳しくわからないが当地域が肥後領であったゆえの面影ということだろうか。
野津原神社の成り立ちは、明治維新後の神仏分離政策と合祀の流れを色濃く反映していますね。明治4年(1871年)に、素盞嗚命を祀る祇園神社と、法護寺に祀られていた加藤清正公の霊を合祀して「野津原神社」としたとのこと。この時期は、廃仏毀釈の影響で、仏教色の強い神社や祀られていた人物の扱いが変わることが多かったですが、ここでは清正公が神として祀られる形になったのが興味深いですね。これは、清正が熊本藩領で厚く信仰されていた証拠でもあります。さらに、**明治12年(1879年)には、地区内の5社を合祀し、より広範な地域の信仰を集める神社へと変化したことが分かります。これは、明治政府による神社整理政策(合祀令)**の影響でしょう。また、江戸時代には熊本藩の御茶屋(本陣)が置かれていたとのこと。御茶屋は、藩主や家臣が宿泊・休憩するための施設であり、交通の要所に設置されることが多いです。野津原もそのような重要な宿場町だったのでしょう。野津原神社は、単なる神社ではなく、地域の歴史や人々の生活と深く結びついた存在ですね。
加藤清正公が熊本と大分を結ぶこの地域の街道を開いたそうで、鳥居には加藤神社と刻まれています。地域の方に昔から今も大事にされているのが伝わってくるような神社で、参拝させていただきました。
鳥居前に車2台くらいは停められそう。
郷社。雰囲気の良い神社です。
| 名前 |
野津原神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
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こちらに用事があり北九州から来てまして先ほど目の前を通った時に拝殿の前にかなり体格の大きい2mくらいの甲冑の様なものをを着た長い烏帽子みたいなのを被った方が見えまして、僕は知らなかったので調べてみると清正公は190cm近くであり、銅像の画像が出てきた為、見てみると正に…清正公でした…そんな事あるのかと思われるかと思いますが僕もびっくりです。ありがたいことです。隣に乗ってる友人いわく手を合わせていらっしゃったとの事でした。友人は毛利家の末裔でもあり、それだからかは分かりませんがかなりの霊感がありますがまさかこんな所でお会いできるとは。昼の間に寄らせていただきます。