歴史に包まれた大徳寺へ。
大徳寺の特徴
大徳寺は歴史の偉人たちと縁のある寺院です。
広大な敷地に重要文化財が多数存在しています。
特別公開の際に多様な塔頭を拝観できる貴重な場所です。
2024.6.8訪問。臨済宗大徳寺派の大本山。信長、秀吉、利休、一休・・・日本人なら誰もが知る人物達の舞台となった寺院ですが、オーバーツーリズムの喧騒はないので本来の京都が感じられます。喧騒の真逆の存在である枯山水の庭園が数多くあるこの地はこのままであって欲しい。
上加茂神社へ行った際に寄らせて頂きました臨済宗大徳寺派の大本山の「大徳寺(だいとくじ)」。1315年に創立され、20を超える小寺が立ち並ぶ京都でも有数の規模を誇る禅宗寺院で、歴史的価値の高い国宝や重要文化財の建物、寺宝が数多くあります。大徳寺は『一休さん』のモデルにもなった一休宗純(いっきゅうそうじゅん)はじめ、数々の名僧を輩出した寺院でさらに千利休など茶の湯の歴史と深い縁があるため、重要文化財に指定された茶室も多く残されています。境内は自由に散策できますが、常時拝観可能な塔頭は、龍源院・瑞峯院・大仙院・高桐院の4院みたいです私は秋に行きましたが、近くの今宮神社も素敵でしたしあぶり餅で有名な本家 根本かざりやさんは大変情緒溢れるお店で大変オススメですよ。
特別拝観に参加して、沢山のことを知ることができました🥰唐門【日暮門】の飾りも見事です🤩🤩千利休の切腹は理不尽ですね😱
大徳寺の開山、大燈国師宗峰妙超は遺言で開山堂を作ることを禁じた。それで大徳寺は他の臨済宗の本山のように開山堂がないが、宗峰を深く慕う弟子たちは、方丈に雲門庵という一室を設け、秀峰の頂相を祀った。(梅原猛著『京都発見8』133頁)宗峰妙超は播州揖西郡、いまの兵庫県龍野市の名家浦上氏の子として生まれた。彼は11歳の時に故郷の書写山に登って僧となったが、17歳のある日、「いくら仏教を教えを知っても何もならない。釈迦の根本体験を理解しなければならない。」といって京都に出て南禅寺や建仁寺の僧を訪ねた。・・・中国にわたり名僧虚堂智愚につき悟りを認められて日本に帰った大応国師南浦紹明を京都安井の韜光庵に訪ねた。(同136頁)まず一休宗純。一休は風狂の僧というべき僧であった。(同144頁)私は宗峰自身に純粋の禅の伝統を守ろうとする精神と、伽藍をつくって自らの法統を拡大しようとする精神との相矛盾する二つの精神があり、それが養叟、一休という弟子に分かれて現れたと思う。(同144頁)大徳寺の塔頭龍翔寺には修行専門道場があり、修行僧がいて宗峰以来の厳しい修行をしているが、その中から一休の如き、沢庵の如き、世の腐敗に反骨を鳴らす禅僧が出て来ることを望みたい。(同148頁)華叟の法統を継いだのは、兄弟子の養叟 宗頤(ようそうそうい)である。華叟は、宗峰妙超の法統の直系でありながら大徳寺の往時(禅寺の住職のこと)になるのを拒絶したが、養叟は大徳寺の往時になり、精力的に布教を続けて、今日の大徳寺の発展の基礎を作った。華叟死後、二十四年の1452年に養叟の努力で華叟に後花園天皇から大機弘宗禅師の諡が贈られた。その時、一休はあの清貧な師匠にこのような名誉を贈るのは師の屍に鞭打つようなものだという意味の詩を作って養叟 に捧げた。(同157頁)京都の町の人は、京都にある臨済宗の本山を、建仁寺は学問面、東福寺は伽藍面などと、その禅風をユーモラスに表現したが、大徳寺を茶人面というのは当たっている。大徳寺は、豊臣秀吉と結びついた茶僧、千利休によって大いに発展したが、利休は秀吉の怒りに触れて死を賜った。しかし、以後も利休の精神は深く大徳寺に残り、茶禅一味という独特の禅風を生み出した。(同176頁)ということで反骨の精神をベースに持つ寺である一方、茶道に縁の深い大徳寺は、戦国大名の信長や当初の秀吉などに愛されたことから、彼らに忖度すべく日本全国の大名がこぞって塔頭を建立するなど、戦国時代の忖度の痕跡が体感できる、興味深いお寺でもあります。今回の冬の京都の特別拝観で 法堂・仏殿を拝観することができました。狩野探幽が35歳の時に描いたという雲龍は圧巻です。ちなみに利休切腹の要因となった三門の利休像は、今でも中にありますが、当時のものではないそうです(明治時代作成)
豊臣秀吉、千利休、石田三成、織田信長など歴史の偉人達に縁のある寺院。五摂家の近衛家の廟所もあるなど由緒あるお寺です。20以上の塔頭や、千利休で有名な山門などがありますが、ほとんどは非公開です。そのためか観光地の京都にあって、それほど人が多くなく、わりと静かに過ごすことができます。地元の人が散歩で通られる印象がありますが、犬を連れての散歩は禁止となってます。
辰年記念の特別公開で訪れました。法堂の天井に描かれた大きな雲龍図を、係の方の説明を聞きながら見上げていると、今にも動き出しそうな迫力のある龍神さまに圧倒されました。このあとに、塔中の一つである龍源院さんにも訪れました。こちらのお寺さんは、ほぼ写真撮影が可能で、美しいお庭や襖絵、天井図等を楽しむことができます。今の時期はお参りをされる方が少なく、おかげで広い境内を歩きながら静かな時間を過ごせました。
金閣寺から鷹峯へ行く途中大徳寺に立ち寄りました。千本北大路から龍翔寺と高桐院の間の道を大徳寺へ、突き当り左の「聚光院」は予約客のみの特別拝観で入れず、隣りの大徳寺は非公開のため外から写真撮影をするだけでした。他の塔頭は公開しているところがありましたが時間の関係で鷹峯へ向かいました。境内には多数の塔頭があるので今度は時間をかけて参観したいと思います。
初めて大徳寺を訪れました。多くの塔頭があり、特別拝観のできる場所だけでなく、通常拝観できるところもお庭が美しく手入れされていて、何時間でも座って見ていられそうなゆったりとした時間が流れているような雰囲気がありました。次回はぜひ違う季節に訪れてみたいと思います!
大徳寺、聚光院の特別公開を拝観。国宝里帰りだけあり、国宝の襖絵が素晴らしい。あるべき所に、当たり前にあることの美しさ。これは、実際に見てみないと分からない。写真撮影禁止なので、ぜひ実物を自分の目で感じてほしい。
名前 |
大徳寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
075-491-0019 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.3 |
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前から行ってみたいと思ってた『大徳寺』に初訪問しました。本能寺の変、山崎の戦いのあとここで羽柴秀吉が織田信長公の葬儀を10日間?ぐらいやったんだよね。喪主は織田信長の息子で羽柴家に養子に入ってた人がやってた(名前忘れたw)柴田勝家、織田信孝とか参加しなくてそこから賤ケ岳の戦いになったとこですね。多分ここの寺の門に千利休が木像を置いてた事にぶちキレて豊臣秀吉が切○を千利休に申し付けた場所でもあったはずです。この山門がそれになるんやろか?知らんけどw何か知らんけど石田三成の墓もあったわ。三条大橋の下で処○されてるからそのまま鴨川に流したもんやと思ってたのでびっくりしたよ。って言うか羽柴秀吉が織田信長公の木像を大徳寺に寄贈してなかったか?拝観できない場所が多くてよく分からんかったわ。日本庭園が見れた。最近こう言うのがええなって感じる様になった。場所は北大路沿いにあって観光客少ないし小生的には良かったわ。