弾除け神社で感謝を捧げて。
三坂神社の特徴
地域に根ざした秋祭りで楽しい奉納カラオケ大会が開催されています。
日清日露戦争の氏子の帰還が有名な弾除け神社として知られています。
太平洋戦争の出征兵士の写真が奉納され、歴史を感じる場所です。
限定の御朱印やうさぎちゃんの雛人形を見たくて訪問。歴史のある神社で、戦時中の弾除け神社として有名だった…のテレビ番組を拝見していたのを思い出しました。訪問した際、宮司さんにとても親切に対応していただき嬉しかったです。
三坂神社(みさかじんじゃ)。山口県山口市徳地堀。式内社(小)御坂神社論社、旧県社。【祭神】大国主大神 事代主大神(配祀)速玉之男神 道反大神 (合祀)素盞嗚尊 大歳神 埴山姫命資料によると、第12代景行天皇12年、周防佐婆への行幸に際し、周防佐麻呂が神託によって三綱柏の葉に、飯・川蜷(カワニナ)を包んで祭祀が行われたことを起源とする。その際の主祭神は、道返大神。奈良時代の天平10年(738年)、『周防国正税帳』に「周防国御坂神社に春秋祭祀料又、神社改造の雑用等を充て奉らしめ給う」とある。平安時代になり、『続日本後紀』承和6年(839年)の条で、「周防国三坂神社に従五位下を授け奉る」とある。『日本三代実録』貞観9年(867年)に従三位に進む。『長寛勘文』によれば、「天慶3年(940年)、諸神社位記請印の事あり、去る承平5年(935年)、海賊を平ぐる事を十三社に祈り申す。三坂神に正三位を加う」とある。二ノ鳥居の銘に「延書式内三坂神社(中略)大江侍従吉広元禄十一年(1698年)戊陽月」とあり、長州藩4代藩主毛利吉広の寄進であったことが分る。再々火災に遭ったようで、造営の記録が多い。天徳年間(957年-961年)に始まり、鎌倉時代の建長7年(1255年)、室町時代の応永2年(1395年)、戦国時代の文明11年(1479年)、大永2年(1522年)、安土桃山時代の天正6年(1578年)、江戸時代の延宝8年(1680年)など。幕末の文久元年(1861年)に現在の社殿が建てられた。宝永年間(1704年-1711年)以来、現在の船路八幡宮との間で式内社の論争があった。明治4年(1871年)に決着し、当社が認定された。明治8年(1875年)、郷社に列した。日清・日露戦争の際、当社に武運長久を祈願した人が全員無事に帰還したことが報道され、「弾除けの神」として有名になった。現在までに、主祭神は大国主命・事代主命。速玉之男命・道反大神を配祀し、素盞鳴尊・大歳神・埴山姫命を合祀する。とあります。
2024年12月1日訪問。
2024/10/13、秋祭りにお参りしました神社では奉納(カラオケ大会)をやっていたり地域に根ざしたいい神社でした。
三坂神社は「弾除け(たまよけ)神社」として知られています。古来より武運長久の神として信仰を集め、戦時中、出征する軍人の家族たちが無事の帰還を願い写真を奉納し、全国各地から2万枚をこえる写真が寄せられました。現在もその写真の返還作業が続けられています。また、「道反(ちがえし)大神」もお祭りしてあり、この世とあの世の境界(黄泉比良坂 よもつひらさか)を守る境界の神様です。現在においても、三坂神社は防府市と山口市(徳地)の境界に位置しています。
よく鬼ごっこ、かくれんぼをして遊びました。
自然との調和がとれた雰囲気の良い神社です。弾除け神社ともありますが、災い避けとしても良いのでしょうね。これからも参拝させていただきます。
三坂神社より75年以上ぶりに、太平洋戦争で戦死したおじいさんの写真が自宅に戻って参りました。仏間の肖像画でしか見た事のなかったおじいさんの顔写真。家族一同初めて見ました。数年前に他界した父にソックリで笑みが溢れました。お礼がしたくて急遽訪問させて頂きました。
日清日露戦争で三坂神社氏子が全員帰還したとして有名になり弾除け神社として有名になり太平洋戦争中も沢山の出征兵士💂の写真が奉納され太平洋戦争終結から70年を経ても未だに奉納された出征兵士💂の写真が残る。
| 名前 |
三坂神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0835-55-4728 |
| HP | |
| 評価 |
4.4 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
風情ある神社⛩️戦時中、三坂神社に祈願して出征した氏子の兵士全員が生還したと報道され、弾除け神社として知られるようになったそうです。写真を奉納し、全国各地から写真が寄せられ、今も写真の返還が続けられています。フクロウの御守りが可愛いです。