歴史を感じる壇ノ浦散策。
与次兵衛ヶ瀬の碑の特徴
ポケモンのマンホールが近くにある楽しいスポットです。
明石与次兵衛塔が対岸の和布刈公園近くに位置しています。
天正20年に秀吉の船が乗り上げた歴史的な場所です。
碑には興味なかったのでもう覚えていない💦壇ノ浦にテンション爆上がり。
ポケモンのマンホール(ポケふた)が側に有ります。
姉妹都市広場の一角にある碑で、与次兵衛の死を悼んだ碑です。1592年、豊臣秀吉は佐賀県の名護屋城に陣を置き、文禄の役(第一次朝鮮出兵)での出征基地としました。朝鮮半島に攻め込んで3ヶ月経った頃、秀吉は母の大政所の危篤の報を受けます。秀吉は急遽早船を用意し、大阪に向かいましたが、途中の関門海峡には、干潮の時には姿を現し、満潮にあると海面下に隠れてしまう「篠瀬」と言う大きな岩礁がありました。与次兵衛は懸命に操船を試みますが、船は座礁して、秀吉は海に投げ出されました。秀吉は何とか篠瀬に辿り着き、難を逃れましたが、与次兵衛は責任を取って切腹しました。1600年、豊前国主となった、細川忠興は与次兵衛の死を悼み、篠瀬に慰霊碑を建立して付近を航行する船の為の目印にしました。この為、篠瀬は「与次兵衛ケ瀬」と呼ばれる様になったそうです。明治時代に入り、旧郵政省によって碑は、昼夜灯建設の為撤去、海中に投棄されました。大正時代に内務省による岩礁撤去工事の際発見され、内務省下関土木出張所の裏庭に再建、第二次世界大戦が始まると、防空壕を作る為撤去海中に仮置き、戦後有志によって引き上げられ、現在の位置に再建されました。
天正20年(1592年)豊臣秀吉が乗る船が岩礁にのり上げました。その船の船頭 明石与次兵衛は、秀吉を危ない目にあわせた責任をとって自刃したとも斬首になったとも伝えられています。岩礁のあたりを「与次兵衛ヶ瀬」と呼ぶようになり、航行する船に岩礁の存在を知らせるため碑が建てられました。明治45年(1912年)に始まった岩礁破砕の工事中に見つかった碑は、対岸の門司の和布刈公園に設置されています。ここにあるものは、昭和54年(1979年)「関門航路草創の地」の記念碑といっしょに建てられたものです。
対岸の和布刈公園(門司)登山口付近に明石与次兵衛塔があります。
秀吉の船の舵取り明石与次兵衛の碑。秀吉の船を暗礁させ秀吉の命を危うくしたとの事で命を落とした与次兵衛、昔の船でこの海は難しかったのだろうなと思う。
| 名前 |
与次兵衛ヶ瀬の碑 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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The Yojibeigase Monument is a stone monument that tells the history of "Yojibeigase," a dangerous reef that once existed in the Kanmon Strait. Related monuments currently exist in Amidaji-cho, Shimonoseki City, Yamaguchi Prefecture (within the Sister City Plaza), and in Mekari Park, Kitakyushu City, Fukuoka Prefecture.The origin of this monument is based on a tragic episode related to Toyotomi Hideyoshi's Kyushu campaign.Hideyoshi's Shipwreck and Yojibei's Seppuku: In 1592, when Toyotomi Hideyoshi learned of his mother Omandokoro's critical condition and hurried back to Osaka, his ship ran aground on a reef in the Kanmon Strait (then called "Shinose" or "Shino-se"). Hideyoshi was unharmed, but it is said that the ship's captain, Akashi Yojibei, felt responsible and committed seppuku (ritual suicide).After this incident, people began calling this reef "Yojibeigase" in mourning for him.