姫路城の下道を歩こう!
をの門跡の特徴
いの門からぬの門を経て大天守へ向かう道が魅力的です。
歴史を感じる下道の風情が訪れる人々を引きつけます。
姫路市本町に位置し、豊かな歴史に触れられるスポットです。
2018/10/14来訪。下道にある門で、高麗門の形式だったそうです。明治時代に失火により消失したそうです。詳しくは解説板があるのでそちらで確認してください。
をの門は高麗門でその横にりの櫓があったという。ともに1882年に火災で焼失してしまった。
姫路城では小型な門には番号代わりに「いろは」の文字が当てられました。江戸時代には「いろは」ナンバーの15門とその他の69門、計84もの門が擁されていたのです。でも現在は「いろは」ナンバーが13とその他が8つ、合計21門が残されるのみです。老朽化や破壊、そして火災によりその多くが失われたのです。で、この「をの門」です。「高麗門」と言われる建築様式で作られていましたが、明治15年(1882年)の失火で消失してしまい見ることが出来ません。しかし現存する「への門」が同じく高麗門です。見てきましたがあまり堅牢な造りではありませんでした。まあ防戦時の時間稼ぎにはなったかな、程度の門でした。ところで江戸期の武家屋敷や豪農の入り口に「長屋門」という様式の門が作られました。門と使用人住居(長屋)が一体となった木造建物で、一見南禅寺の山門を彷彿とさせる造りの門です。筆者の近くの街道沿いには「長屋門」を備えたお宅が何件もありました。いわゆる豪農です。千反田家です。ウチの家にも、と羨ましく思っていましたが最近少しずつその数を減らしているのです。で、こちらの原因は相続問題なんだそうです。……………..😱2026.2.6
いの門からぬの門を経て大天守へ向かう道を下道といいます。をの門は、下道の最初の門になります。門は高麗門形式で、その横にリの櫓がありました。をの門からぬの門までの間は一つの大きな桝形空間を形づくっており、下道における防御の要となっています。をの門とリの櫓は、明治15年 (1882) 2月に失火によって焼失しました。The path that makes its way from the I-no Mon ( I Gate ) via the Nu-no-Mon ( Nu Gate ) to the Main Keep is known as the lower road. The O-no-Mon ( O Gate ) is the first gate on the lower road. The gate was made in the Korai Mon style and sat beside the Ri-no Yagura ( Ri Tower ). The area between the O-no-Mon ( O Gate ) and the Nu-no Mon ( Nu Gate ) forms a large masugata ( a space where soldiers would assemble ) , which formed the linchpin in the defense of the lower road.Both the O-no-Mon ( O Gate ) and the Ri-no Yagura ( Ri Tower ) burned down in an accidental fire in February 1882.
| 名前 |
をの門跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
079-285-1146 |
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 9:00~16:00 |
| HP | |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
|
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姫路城のをの門跡は、本丸へ向かう「下道」の入口にあたる門跡です。姫路城では、いの門からぬの門を経て大天守へ向かう道を「下道」と呼び、をの門はその最初の門でした。現在は門そのものを見ることはできませんが、ここは本丸に近づく敵を迎え撃つための重要な防御地点でした。かつてのをの門は高麗門形式で、その脇にはリの櫓が設けられていました。門と櫓を組み合わせることで、通路を監視するとともに、門へ接近する敵を側面や上方から攻撃できる構えになっていました。さらに、この門の重要性を理解するうえで欠かせないのが、をの門からぬの門までの空間です。この区間は一つの大きな枡形を形成していました。枡形とは、門の前後に一定の空間を設け、敵の進行をいったん受け止める防御施設です。敵が門を突破しても、そのまま本丸へ進めるわけではなく、周囲から攻撃を受ける可能性が高くなります。つまり、をの門は単独で敵を食い止めるのではなく、ぬの門へ至るまでの空間そのものを防御施設として利用する仕組みの一部でした。下道を進む敵にとっては、門を一つ突破することが終点ではなく、その先にも防御された空間と門が待ち受けています。こうして敵の侵入速度を落としながら、城兵が迎撃できる時間を稼ぐことができました。このように考えると、姫路城の登城路は単なる移動経路ではなく、本丸へ近づくほど段階的に防御が重なるよう設計された戦闘空間だったことが分かります。をの門は、その下道の入口として、門・櫓・石垣・枡形を組み合わせた防御の起点となっていました。しかし、かつてのをの門とリの櫓は、1882年(明治15年)2月の失火によって焼失しました。そのため現在は建物を見ることはできず、門跡として往時の位置を伝えています。現地では、門が失われていることから一見すると見過ごしてしまいそうな場所ですが、少し立ち止まって、ここからぬの門まで続く空間全体を眺めてみるとよいでしょう。現在残る石垣や地形を手掛かりにすると、かつて門と櫓が立ち、敵を枡形へ引き込んで迎え撃つ仕組みが少しずつ見えてきます。姫路城の魅力は、現存する天守や櫓だけではありません。をの門跡のように失われた遺構にも、城を守るための巧みな設計が刻まれています。「門があった場所」だけを見るのではなく、その門から次の門までを一つの防御空間として眺めることで、姫路城の縄張りがより立体的に理解できます。