中津隈宝満神社で歴史探訪。
中津隈宝満宮の特徴
社殿や狛犬、燈籠が色鮮やかに塗装されている神社です。
境内には貴重な古墳や石室が露出しており、歴史を感じさせます。
戦国時代の中津隈之城跡も近くにあり、訪問の価値があります。
数年前に、社殿や狛犬、燈籠に色が塗られたようです。極彩色で綺麗です。
ご祭神は、玉依比女命ですが、大山クイノ命、菅原道真公も合祀されています。創建は732年に大宰府の竈門神社の神霊を勧請し、松本に宮を建てました。810年にこの地に移されました。その後中津隈の住民の氏神様として崇敬されてきました。この地は元々古墳があった場所で西暦500年頃に造られた前方後円墳の墳墓がありました。境内に置かれている大きい石の集まりは古墳の石室の跡だと思われます。また戦国時代には、犬塚家広が中津隈城を建てた場所でもあります。長い歴史をもった神社です。鳥居の扁額や、狛犬など鮮やかな色で塗っていますが、神社自体も非常に手入れが行き届いており、住民の神社に対する親しみが感じられます。
古墳もあって、歴史を感じます。
田舎の普通の神社です。宮司さんは常駐していません。
江戸時代の燈籠、狛犬があります。神社前に駐車場もあります。燈籠は金色に塗られ、狛犬も金と銀に塗られています。ちょっと品のない神社でした。
戦国時代の中津隈之城跡。
中津隈宝満神社は、JR中原駅の南2.4kmほどの県道22号線沿いの中津隈地区の集落に鎮座している神社です。旧社格は村社です。この場所にはかつて「中津隈城」があり、また前方後円墳もあります。古墳、城址、社殿が一つの所にある珍しい神社です。天平4年(732年)筑前国竃門山宝満宮(現太宰府市)の神霊を勧請、松本に神社を建立しました。弘仁4年(810年)に現在の地に社殿を移し、その後、山王社・太宰府天満宮を勧請しました。戦国時代、この周辺は板部氏の所領で、いったんは西島領主・横岳氏に移りましたが、元亀3年(1572)に龍造寺隆信が横岳氏を攻め、神埼の崎村城にいた犬塚家広(※小弐家の家臣で東肥前19城将の一人)が「西尾城攻め」の守りとして崎村城を支城にし、ここを本城として築かれたと言われています。しかし、龍造寺氏が衰退し、鍋島氏が勢力を増すと犬塚氏も鍋島氏に仕え、この地から小城に去ってしまい、やがて城も廃れていきました。今でも中津隈西地区には「タチ」「タチボリ」「カマウチ」「クラヤシキ」等の城址を示す地名が残っています。現在の社殿は中津隈城址に建てられています。2度の戦火や祇園祭の花火で度々社殿を焼失しましたが、明治28年(1895年)に神殿・拝殿共に再建されました。御祭神は、玉依姫命・大山咋命・菅原道真公です。拝殿の彫刻や鳥居の神額、狛犬は極彩色に彩られていて珍しいです。一の鳥居は立派な肥前鳥居(高さ3.5m、笠木の長さ4.6m)で、二の鳥居は昭和5年(1930年)の建立です。祭礼日は、元旦祭・1月1日、祈年祭(春祭)・3月10日、例祭(秋祭)・10月23日、新嘗祭(収穫祭)・12月10日、除夜祭・12月31日です。御幸祭は、12年に一度巡ってくる午年に開催されます。天平4年(732年)に創建されて以来代々引き継がれてきた古い祭りと言われていますが、明治3年(1870年)の大祭以前の記録が戦火により消失しており定かではありません。以降は絶えることなく催されており、祭り当日は下宮である「井野原神社」まで神体が遷宮され、稚児・舞姫・毛槍・鉦・太鼓の行列が続き盛大に行われ、多くの見物客が訪れます。中津隈前方後円墳は、中津隈宝満神社の境内にあります。前方部は中津隈宝満神社本殿により削平を受けており、今は高さ約7m、直径約36mの後円部のみが現存しています。表層から確認されている埴輪や須恵器などから、5世紀中頃から後半に築かれたものと推察され、この地方の豪族の墳墓と考えられています。この場所から西の方角に2km行った上峰町には応神天皇の皇曾孫、都紀女加王(つきめかおう)王墓があり、関係があるのではないかと言われています。また、拝殿の東南側には石室が露出している横穴式古墳があり、こちらは5世紀後半から6世紀にかけてのものと推測されています。神社のある「中津隈(なかつくま)」という地名は、かつてあった肥前佐賀藩の養父郡(やぶぐん)中津隈村に由来します。明治22年(1889年)中津隈村、東尾村、白壁村、三根郡江口村が合併して北茂安村が発足して、中津隈村は消滅しました。明治29年(1896年)三養基郡(みやきぐん)北茂安村となりました。昭和40年(1965年)北茂安村が町制施行して北茂安町となりました。平成17年(2005年)北茂安町・中原町・三根町が合併してみやき町が発足しました。宝満宮の総本社の竈門神社は、宝満山の麓に鎮座していて、大宰府の鬼門(東北)の位置にあることから、「大宰府鎮護の神」として崇敬されました。神武天皇(初代天皇)の母である「玉依姫(国津神)」を御祭神としています。
ちょっと入り込んだ所にありました。
みやき町に所在する古墳探訪で寄ったものである。ここには宝満神社境内古墳(前方後円墳)が残されているからである。神社は1200年も前からこの地に鎮座している。面白いことに阿吽がド派手なものになっている。彼らはこんなことが好みだったのだろうか。人間のすることは判らぬ。御祭神は玉依比女命(神武天皇の母)である。ただね、前方部を削ってまでも創建しなくても・・・
| 名前 |
中津隈宝満宮 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0942-94-5158 |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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神社だけではなく、隣には古墳も有り楽しめます。以下引用させて頂きました。中津隈宝満神社古(いにしえ)の眠りを守る中津隈の氏神様中津隈宝満神社は北茂安校区中津隈地区にある神社です。この場所にはかつて「中津隈城」があり、また前方後円墳もあります。古墳、城址、社殿が一つの所にある珍しい神社と言えるでしょう。なお前方後円墳はみやき町の重要有形文化財として指定されています。2度の戦火や祇園祭の花火で度々社殿を焼失しましたが、明治28年に神殿・拝殿共に再建されました。肥前鳥居もあり(高さ3.5m、笠木の長さ4.6m) 歴史ロマンあふれる地です。由来建立の歴史は北茂安校区内では千栗神社の次に古く、天平4年(732年)に筑前国竃門山宝満宮(現太宰府市)の神霊を勧請、松本に神社を建立しました。弘仁4年(810年)に現在の地に社殿を移し、その後山王社・太宰府天満宮を勧請したと由緒年紀に記してあります。戦国時代、この周辺は板部氏の所領でした。その後いったんは西島領主・横岳氏に移りましたが、元亀3年(1572)に龍造寺隆信が横岳氏を攻め、神埼の崎村城にいた犬塚家広(いんつかいえしげ)(※小弐家の家臣で東肥前19城将の一人)が「西尾城攻め」の守りとして崎村城を支城にし、ここを本城として築かれたと言われています。しかし、龍造寺氏が衰退し、鍋島氏が勢力を増すと犬塚氏も鍋島氏に仕え、この地から小城に去ってしまい、やがて城も廃れていきました。今でも中津隈西地区には「タチ」「タチボリ」「カマウチ」「クラヤシキ」等の城址を示す地名が残っています。現在の社殿は中津隈城址に建てられています。御祭神:玉依姫命、大山咋命、管原道真命祭礼日:元旦祭・1月1日、祈年祭(春祭)・3月10日、例祭(秋祭)・10月23日、新嘗祭(収穫祭)・12月10日、除夜祭・12月31日境内社:権現社他由緒:元村社12年に一度の御幸祭中津隈宝満神社では12年に一度巡ってくる「午年」に「御幸祭」が行われています。天平4年(732年)に創建されて以来代々引き継がれてきた古い祭りと言われていますが、明治3年の大祭以前の記録が戦火により消失しており定かではありません。以降は絶えることなく催されており、祭り当日は下宮である「井野原神社」まで神体が遷宮され、稚児・舞姫・毛槍・鉦・太鼓の行列が続き盛大に行われ、多くの見物客が訪れます。中津隈宝満神社の場所住所:みやき町大字中津隈。