松平忠房の鐘、時を告げる壮大な物語。
鐘撞堂(時鐘楼)の特徴
クロックタワー島原で270年、時を知らせ続けた鐘の歴史が魅力です。
おかみの鐘として親しまれ、復元された美しい鐘楼が見どころです。
じしょうろうと読むこの静かな史跡で、時の流れを感じられます。
時のお殿様が民に時を知らせたとされる鐘だけどただのレプリカです。
2024/02/24来訪。石垣の上に木製の壁に囲まれて鐘楼が吊られています。梵鐘には文字や絵が描かれていますので覗いてみてください。延宝3年(1675年)9月、初代島原藩主・松平忠房が「人々に時刻を知らせ、守らせることは政治の中でも大切なことである。」と、鐘楼を建立しました。巨鐘は豊後国中島の藤原正次に鋳造させたもので、純金を鋳こんだ高さ1.3メートル、代銀401匁の青銅製の鐘が吊り下げられ、これを毎時間ごとに撞き鳴らして時刻を知らせていました。
素敵な鐘でした〜銘文模様が北村西望って知らなかった、凄いな〜
時の鐘。階段はあるが、入り口が塞がれており、鐘を間近でみることはできない。なお、当時の鐘は戦時中に供出され、現在の鐘は再鋳造されたもの。鐘楼自体も昭和の再建である。
クロックタワー(原文)時鐘楼。
鐘撞堂(時鐘楼)があります。『人々に時刻を知らせ、守らせることは政治の中でも大切なことである』延宝3年(1675年)9月、初代島原藩主・松平忠房が「人々に時刻を知らせ、守らせることは政治の中でも大切なことである。」と、鐘楼を建立しました。巨鐘は豊後国中島の藤原正次に鋳造させたもので、純金を鋳こんだ高さ1.3メートル、代銀401匁の青銅製の鐘が吊り下げられ、これを毎時間ごとに撞き鳴らして時刻を知らせていました。 ひときわ美しく澄んだ音色は遥か遠くまで響き渡り、西風の日は熊本県沿岸まで28キロの海をわたって聞こえたと伝えられています。堂の下は空洞で、音を共鳴させる特殊な構造になっていたそうです。明治維新後も、島原の人たちに「お上の鐘」として親しまれ続け、飯塚家がここに住み着き3代にわたって鐘つきをしました。しかし、生活に溶け込んでいた時鐘も太平洋戦争の金属供出命令によって昭和19年(1944年)に運び去られ、270年間もの長い歴史の余韻を残したままその行方はさだかではありません。鐘楼だけは昭和48年まで残っていましたが破損もひどかったので、昔をしのぶ人たちの寄付によって復元されました。現在の鐘は、直径69センチメートル、高さ132センチメートル、重さ375キログラムほどあります。銘文や模様は北村西望氏の労作によるものです。
1675年に、島原藩主の松平忠房が作らせたと書いてあります。武士はもちろん領民にも、時間を意識して行動するように奨励するためのものだったようです。「時間を無駄にしてはいけない」と言いたかったんでしょうね。
島原に時刻を知らせ続けて270年…おかみの鐘として親しまれて来た鐘楼太平洋戦争で一度その姿を消したが1980年に復元された。
建物は新しいめ。
| 名前 |
鐘撞堂(時鐘楼) |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.2 |
| 住所 |
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初代島原藩主・松平忠房が「人々に時刻を知らせ、守らせることは政治の中でも大切なことである。」と、鐘楼を建立しました。(島原市ホームページ様より引用)という背景のある史跡です。島原城築城400周年のイベントが開催されていたため、島原市立第一小学校が臨時駐車場になっていたので、武家屋敷方面から歩いて駐車場に戻る際に発見しました。通常期はどの駐車場からも微妙に離れている立地のためなかなか回る機会は無いかと思います。島原城からもまぁまぁ遠く、武家屋敷通りの「武家屋敷 鳥田邸」からは比較的近いですが、「武家屋敷駐車場」に戻るのが遠くなります。