戦国の誇り、山崎興盛の地。
山崎伊豆守興盛自刃之地の特徴
弘治元年に毛利軍に抵抗し続けた武将の跡地です。
山崎興守が自刃した地で、歴史を感じるスポットです。
須々万沼城跡に位置し、戦国時代の背景を学べます。
毛利勢を一度は撃退した武将だったようです。
『須々万沼城跡』近くに最後まで毛利元就の降伏勧告を拒否して自刃した陶家の家臣『山崎興守』のお墓があったので手を合わせて来ました。『山崎興守』の息子の『山崎隆次』もこちらで埋葬されてるそうです。YouTube動画『Yukimura ch』さんでは『山崎隆次』の嫁さん『あやや姫』も城が落城する前日にお城に戻って旦那と一緒に自刃したって話になってたけど『あやや姫』もここに埋葬されてるんやろか気になったわ。滅びゆく陶家に最後まで忠誠を尽くされた忠臣ここに眠る(合掌)
弘治元年(1555年)厳島の戦いで陶晴賢を破った毛利軍は、破竹の勢いで防長に進出してきました。陶氏の重臣である山崎伊豆守興盛らは、沼城に立てこもり約1年間頑強に抵抗しました。沼城の攻防は弘治2年(1556年)4月に始まり、翌年の弘治3年(1557年)3月に毛利元就を総大将とした総攻撃により、城主山崎伊豆守興盛親子は自刃、沼城は落城しました。籠城していた男女1500人は討たれたと言われています。
| 名前 |
山崎伊豆守興盛自刃之地 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| 評価 |
4.5 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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山崎伊豆守興盛自刃の地は、周南市須々万に山崎伊豆守興盛自刃の地として存在する、山崎伊豆守興盛は、戦国武将山崎伊豆守興盛「やまざきいずのかみおきもり」が毛利氏との戦で籠る須々万沼城の麓の地で1557年、弘治3年に興盛が息子孝次【りゅうじ】と共に毛利元就に降伏し自刃『切腹』した場所として知ら龍文寺に葬られ墓碑が残っている、歴史の背景と経緯、須々万沼城の戦、1556年〜1557年毛利元就の家臣であった山崎興盛は、須々万沼城を拠点に毛利氏の支配に抵抗していたが、毛利元就、隆元親子に寄る数度に渡る攻撃を受け長期戦と成った、元就の総攻撃、弘治3年1557年、毛利元就は、火縄銃を初めて実戦投入し沼に編竹「あみだけ」を投じて渡る総攻撃を仕掛けた、城兵達は、慌てている間に江良賢宣がらが降伏した為開城を決意元就は、善戦を賞賛し助命を試みたが、興盛は、武士としての誇りから降伏を拒否し元就の検使を願い出た、自刃『切腹』の地、元就が差し向け井上就重【いのうえなりのぶ】児玉就方『こだまなりかた』を検使として迎え興盛は、息子隆次と共に須々万沼城の麓本城と言う場所で自害『切腹』をした、須々万山崎伊豆守興盛自刃の地の由来で有る。歴史探検家ランキング評価、アクセス度1歴史度5、秘境度1総合ランキング評価、7。補足文書、尚須々万沼城及び須々万山崎伊豆守興盛自刃の地に付いては、旧徳山市市史調史を引用。