萩市の歴史と赤瓦、笠松神社。
笠松神社の特徴
萩藩永代家老・益田親施を祀る神社です。
歴史的な赤瓦が残る神社で魅力的です。
うまく移転された拠点の由来を感じられます。
益田市の由来となった豪族で、長州藩の外様家老になり、益田市にあった拠点を須佐に移した後、亡くなり弔う為に建立された神社。
萩藩永代家老、益田家33代の益田親施を祀った神社です。親施は32歳の時、禁門の変で汚名を着せられた藩主、毛利敬親の代わりに、家老であった国司信濃、福原越後と共に徳山の惣持院にて切腹させられました。この神社の灯篭や鳥居には「元治三年」や「元治四年」と書かれていますが、実際には当時「慶応」の年号になっていました。これは徳川慶喜に応じる意味の「慶応」を認めぬ、反骨精神の現れです。その年号を見るだけでもなかなか面白いのではないでしょうか。
益田家33代領主 親施(ちかのぶ)を祀っている神社です。益田親施は、元治元年(1864年)福原元僴、国司親相とともに兵を率いて京都に上りましたが、禁門の変(蛤御門の変)で敗退しました。朝廷、幕府に刃向かったとして窮地にたたされた長州藩を、益田、福原、国司の三家老は自刃というかたちで責任を負い、救いました。境内の鳥居や灯籠に、実際には存在しない元治3年や4年(一般的には慶応2年、3年)の年号があるのは、徳川慶喜に通じる慶応の年号をさける反骨精神なんだそうです。
益田親施公が祀られているここに、歴史上には存在しない、元治三年、元治四年を見に来ました。鳥居には元治三年、灯籠には元治四年と刻まれていました。これは、長州藩にしかない年号です。福原元僴公が祀られている宇部の護国神社の禁門の変の殉国戦士之碑の裏の墓石にも、元治三年と刻まれているお墓がありました。国司親相公ゆかりの奥万倉の美登里神社や天龍寺、屋敷跡などにも、探しに行ってみようと思います。
「山口県萩市:笠松神社」バイクツーリングの途中で立ち寄りました。幕末ならではのエピソードが印象的です。特に、存在しない「元治三年、四年」の鳥居がすごい。益田家第33代益田親施(ますだちかのぶ)を祀る神社で、慶応元年(ここ重要です)に建立され、祭神を高正大明神としています。親施は、毛利家家老として幕末国事に奔走しましたが、元治元年(1864)禁門の変の責任をとり家老の福原越後、国司信濃とともに切腹させられました。親施は32歳で生涯を閉じました。主君を失った益田家家臣たちは、親施公の非運を嘆き神として祀るためわずかの期間で笠松神社を創建しました。しかし、その時にはすでに元号は「元治」から「慶応」に改元されていましたが、主君の悲憤を思い慶応の年号を認めず、反骨の気概を示した鳥居には「元治三年」と社前の灯篭には「元治四年」と刻銘されています。美祢市にある金麗社に同様のものがありますが、これと共に全国類例のない珍しいものとされています。
| 名前 |
笠松神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
4.4 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
萩市須佐の笠松神社に残る赤瓦です。かなり古い瓦のように感じますが暦は解りません。狛犬もいます。