国指定史跡、穆佐城の魅力再発見。
穆佐城跡(国指定史跡)の特徴
アップダウンの多い城跡で、登城する楽しさがあります。
国指定史跡の穆佐城跡は、日向三高城の一つです。
整備が進んだ曲輪や空堀が見事に残されています。
壁面工事で三ノ丸と西ノ丸が入れない。
小学校跡にあるガイダンス施設の周りに駐車し、登城しました。割りとすぐに城域に入ります。南九州の城らしく周囲は切り立っています。東側は切り岸が鋭く面積が小さい、独立した曲輪群となります。中央は面積が大きく曲輪が段々と並ぶ主郭部となっています。中央の南側が本丸で、南西側に虎口があります。西側に幅広な土塁があり、大規模な空堀で西側の曲輪群と分断されています。中央から西の曲輪群には直接行けませんでした。城域西にまわり、道路沿いのガードレールから西側の曲輪群に登れました。曲輪の端を廻れるような数m草木が払われ道になっていました。比較的平坦な印象でした。
国指定史跡穆佐城城跡別称を穆佐(むかさ)院高城ともいい新納院高城、三俣院高城と並んで日向三高城の一つに数えられる。現在でも中世城郭の遺構が大規模に残っており良好な状態で保存され散策が可能です。標高約60mの丘陵上に造られた全長600mの山城で、大規模な空堀によって大きく4つの大きな曲輪に分かれています。南九州特有のシラス性丘陵に立地し、大きな空堀で区切った独立性の高い曲輪群を並列させる造り方は群郭式と言って南九州地方の山城の特徴です。平成14年(2002年)城跡は国の史跡に指定され、平成27年10月17日に穆佐城跡ガイダンス施設が開館しました。登城口もガイダンス施設横にあります。【歴史】南北朝時代の建武3年(1336年)発給の『土持宣栄軍忠状』では、この前年12月に南朝方であった伊東祐広が穆佐院政所に立て籠もったのを土持氏が攻略したとするもので築城年代もこの頃とされる。その後足利尊氏の直轄城とされ畠山直顕が城主として差遣された。15世紀初めには島津氏8代当主である島津久豊が入城し伊東氏と戦をするが敗北遁走し、文安2年(1445年)に城は伊東氏の支配に帰した。10代当主の伊東義祐の頃には「伊東四十八城」の一つに数えられる。天正5年(1577年)伊東義祐が豊後国へ落ち延びると島津氏の城に帰するが、元和元年年(1615年)の一国一城令により廃城となった。【アクセス】穆佐体育館横のガイダンス施設の駐車場が利用できます。#お城 #城 #城跡 #宮崎県 #穆佐城#国指定史跡 #宮崎市。
2022年2月1日現在、A.B区画は、整備が整いつつあり、曲輪、空堀など見事としか言いようがありませんでした。中世に作った方々もですが、現在整備していただいている方々にも感謝です。穆佐城跡ガイダンス施設(土日祝のみ開館)に車を停め、平日でしたが外に置いてある、散策マップをもとに、巡りました。最後は、御城印も用意されていました。歩きやすく滑らない靴をおすすめします。
今年から遺跡調査等が始まります。 今は自分達遺跡の杉の木伐採 搬出等していますので危険です!
一見するに値する城。
2019年7月訪問前年の台風被害の影響で、いまだに主郭が立入禁止でした。
国指定史跡。イベントのため指定のサンスポーツランドの広い駐車場を利用して5分くらい歩いて訪問。通常の駐車場はどこだろう?2019年3月イベントで訪問。去年の台風の影響でかなり立入禁止。
説明立札おっ立てて放置してる感好き。実際は結構整備されてるけど。
名前 |
穆佐城跡(国指定史跡) |
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ジャンル |
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電話番号 |
0985-85-1178 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.8 |
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けっこうアップダウンがあります。動きやすい服装と靴で!