歴史を感じる、大内義長の墓。
大内義長公の墓の特徴
大内氏最後の当主、大内義長公の歴史を感じるお墓です。
毛利家や長府藩士のお墓に囲まれ、静かな佇まいが魅力です。
歴史に翻弄された大友家出自の大内義長のお墓がここにあります。
一般の方や毛利家や幕末の長府藩士のお墓の陰で端っこにひっそりと佇んでます。お墓自体かなり寂れた印象を抱きましたがそれがまたかつての大大名が歴史の表舞台から姿を消したということを物語っているようで哀愁を誘います。
大友家から養子でやってきた大内義長のお墓です。ここまで逃げてきたなら実家に逃げれそうに思いますけど、ここで毛利家に包囲されて自害しました。看板がいくつかあるのですが、隣の幕末の方のお墓の方が扱いが良いです。
奥の方にあります。
歴史に翻弄された大友家出自の大内義長の墓がここにある。
大内義長公は、大内氏32代の当主で、大内氏の(事実上)最後の当主です。大内義隆公が陶晴賢に討たれたのち、天文21年(1552年)豊後の大友宗麟の弟義長が大内氏の当主となります。弘治元年(1555年)毛利元就は厳島で陶晴賢を破ると周防、長門へと侵攻します。弘治3年(1557年)義長公は山口の高嶺に城を築き防戦しますが防ぎきれず、長門の勝山城に移ります。勝山城に籠もって抗戦しますが敗れ、長府の長福寺(現功山寺)にて自刃します。これにて大内氏は滅亡します。義長公は、天文21年(1552年)フランシスコ・サビエルの弟子コメス・デ・トルレスに「教会建立許可の裁許状」を与えています。このことにより、山口に日本で最初のキリスト教会ができました。同年旧暦12月9日(西暦12月24日)賛美歌を歌ってクリスマスを祝い、クリスマスミサを行なったのが、日本のクリスマスの始まりといわれています。
名前 |
大内義長公の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
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大内最後の当主ひっそりとしたお墓だった合掌。