肥前と天草の城旅、浜城の砦。
丸尾城跡の特徴
島原氏が浜城の山手西側を守るための重要な砦です。
丸尾城跡で歴史を体感する特別な時間をお楽しみください。
美しい自然に囲まれた景観が、訪れる人を魅了します。
いよいよ肥前と天草の5泊6日の城旅も最終日となった。せっかく島原まで来たのだから、今日は少しテーマから外れて、原城跡近くの宿から雲仙普賢岳や土石流の跡地を慰霊して、ここ丸尾城(丸尾砦)跡へ来た。ここは現在本光寺の境内になっていて、城跡説明案内板が一つあるのみで、城郭らしかった雰囲気があるのみである。車は本光寺の山門の前の広いところに停めさせて頂いた。丸尾砦から森岳城(現在の島原城)にかけての一帯は、昔(戦国時代)沖田畷と云われた湿地帯であった。天正十二(1584)年九州北部に勢力を拡大中の龍造寺隆信が2万5千(3万、6万とも)の大軍で島原の有馬氏を攻め滅ぼそうと進撃した時、有馬・島津の6千(8千とも)の連合軍が堅固な陣を築き、激しい戦いを繰り広げた場所である。これが世に云う「沖田畷の戦い」である。この時の有馬氏の当主晴信は、九州北部で勢力拡大中の隆信に対し、九州南部で勢力を拡大し北進を目論んでいる島津義久に支援を求めた。義久はそれに応え、希代の策士家久(貴久の四男、異母弟)を派遣した。家久は丸尾砦から森岳城にかけて長大な柵と堀を巡らせ、防衛戦線を構築した。戦闘は中央の畷筋、海よりの浜手筋、それとこの丸尾砦のある山手筋で激しく行われた。丸尾砦には猿亘信光、山田有信らの島津軍が布陣し、龍造寺軍の名将鍋島直茂らと激突した。直茂ら龍造寺軍は薩摩軍を陥落寸前まで追い詰めたが、戦線中央の畷筋で主君隆信が家久軍に討たれたことを知ると、軍を退き戦いは終わった。《2023.7.22訪問》
いきました。
| 名前 |
丸尾城跡 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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島原氏が浜城の山手西側を守るための砦。松平家菩提寺本光寺が城跡。沖田畷の戦いでは島津勢の猿亘越中守が守り鍋島直茂との激戦だったが龍造寺隆信の討死で兵を引いたとのこと。