秋穂の薬師如来に出会う。
栄泰寺(秋穂八十八箇所霊場 七十四番札所)の特徴
秋穂八十八箇所霊場の74番札所に位置する寺院です。
当寺のご本尊は薬師如来で、多くの信仰を集めています。
明治3年に合併した歴史のある栄泰寺の文化があります。
御本尊は、薬師如来です。明治3年(1870年)この地にあった泉蔵坊と萬徳院と戒定院の三寺が合併して、法輪山栄泰寺となりました。
第74番 大里 栄泰寺本尊:薬師如来当寺は明治3年(1870)にこの地にあった泉蔵坊と萬徳院ならびに戒定院の3寺が合併し法輪山栄泰寺となった。しかし戒定院は明治7年(1874)分離独立した。栄泰寺は泉蔵坊の旧跡をそのまま踏襲したが、昭和25年12月火災にあい、位牌堂を残し本堂、庫裡を全焼した。現在の建物は昭和36年(1961)3月に再建され、本堂25坪、庫裡27坪。位牌堂は、昭和12年(1937)の築造で42坪。泉蔵坊は仁明天皇の承和5年(838)、小栗栖常暁律師が宣旨により入唐し、翌年2月に帰朝後当寺を創建したと伝えられる(風土注進案)。この寺に74番札所がおかれたことが文政2年(1819)の絵地図でわかる。幕末に奇兵隊や八幡隊が駐屯したとき、この寺が本陣となった。境内には大里村の俳人小野麦作(無着庵5世)の句碑がある。「酒よりも茶によき夜なりほととぎす」。この句碑は、麦村の弟子の栄泰寺住職村岡梅琴と開地旭東が明治36年(1903)に建立した。◇奇兵隊、八幡隊の駐屯江戸時代末期の文久3年(1863)9月、馬関に駐屯していた奇兵隊が山口への海口防備にあたるため、泉蔵坊を本陣に萬徳院、遍照寺、真善坊の4寺に分宿した。そして外敵に備えるために台場を作ったり、銃砲警固を行った。翌文久4年、奇兵隊は都落ちして来た公卿7卿の警固のため三田尻に移駐した。その後秋穂の菩提寺、遍明院に駐屯していた八幡隊が移って来て、台場の築立や打ち方の訓練を行った。第2次長州征伐に先立つ慶応2年(1866)、幕府軍攻撃のため第2奇兵隊が秘かに行動を起こすことを知った一部の八幡隊員が、この計画に加わるため脱隊して海路東上を企てた。この計画は未遂に終り、黒潟海岸まで脱走していた者のうち、主謀者1名は腹痛のために病床にあって、梟首をまぬがれ6人のうち5名は梟首された。それが泉蔵坊の南参道椎ノ木北側であった(二島史)。
名前 |
栄泰寺(秋穂八十八箇所霊場 七十四番札所) |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
083-987-2118 |
住所 |
|
HP | |
評価 |
3.2 |
周辺のオススメ

秋穂八十八箇所霊場74番札所 ご本尊薬師如来がおいでになって居られます。