歴史好きのための鳥取城探索。
吉川経家弔魂碑の特徴
吉川経家弔魂碑は、中国地方の歴史に深く触れられる場所です。
鳥取城攻めにまつわる物語が色濃く残る史跡です。
吉川家に関する展示が多く、歴史好きには魅力的です。
鳥取市民としては吉川経家公はとても馴染み深く鳥取城のお濠端にある銅像を見慣れているのでさらに味わい深い。
Memorial en Iwakuni.
秀吉の鳥取城攻めに際し、城を守るべく入城したが兵糧攻めに遭い、地獄絵のような篭城戦の末に城兵の命と引き換えに自害したとのこと。戦国時代に名を残す立派なもののふに感動。
比較的吉川家の関係の物が多く、中国地方の歴史好きにはたまらない場所だと思います。この石碑は秀吉の鳥取攻めのあと切腹した吉川経家(つねいえ)を弔うための碑でそうです。鳥取から石をもってきて作られたそうです。
| 名前 |
吉川経家弔魂碑 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0827-29-5116 |
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
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羽柴秀吉による鳥取城攻めに於いて鳥取城主山名豊国は、家臣団が徹底抗戦を主張する中、単身で秀吉の陣中に赴き降伏した。城主を失った鳥取城には毛利家から吉川経家が送り込まれ、防衛線の構築に取り掛かり籠城戦の準備を進めた。しかし、兵糧の蓄えがおおよそ3ヵ月分しかなかった。因幡国内の米は秀吉によって全て高値で買い漁られ、その高値に釣られた鳥取城の城兵が備蓄していた兵糧米を売り払った為だ。鳥取城は兵糧は尽き果て、動物、植物も食べ尽し人肉をもという地獄絵図となった。経家はここに至って城兵の助命を条件とし、降伏することとなった。秀吉は経家の奮戦を称え、責任を取って自害するのは森下道誉・中村春続だけでよく、経家は帰還させるとの意思を伝えた。しかし経家はそれを拒否し、責任を取って自害するとの意志を変えなかった。困惑した秀吉は信長に確認をとり、信長は経家の自害を許可した。経家を弔うため、昭和14年にこの弔魂牌が県立された。確かに最後まで武士道を貫き通し名誉なことだが、こんな偉人を34歳の若さで散らすのは勿体ないな。