南北朝時代の跡、田丸城の魅力。
田丸城 天守跡の特徴
田丸城天守跡は南北朝時代の歴史が感じられる場所です。
扇状に広がる天守の階段がユニークな魅力を放っています。
再建された石垣が見事に保存されており、立派です。
天守閣等について。コストをかけることは出来ないが街で出来ることを精一杯やっている感があって良いと思います。
田丸城の「推し」のアイドル(笑)は、旧城主で織田信長の次男「織田信雄」みたいです。なんせ特製イラスト付き「信雄のぼり旗」が城のあちこちに翻っていましたから(写真参照)。う〜ん、しかし何故にサンスケ殿(信雄の別名)?? 歴史好きな方なら知っているとは思いますが、彼の武将としての評価はあまり高いものでは無いからです。勝手に伊賀国に侵攻したうえに大失敗して、父の信長を「親子の縁を切る!」とまで激怒させた事もあります。また珍妙な振る舞いも多く、「三介殿のなさる事よ」と周囲から眉をひそめられるような行動も度々だったようです。実は田丸城の旧城主としては文武両道の名将「蒲生氏郷」もいるのですが、そちらは近所の松坂城の城主として有名過ぎて、被ってしまうのがツライところ(笑)。なるほど織田信雄「推し」というのは、不思議系アイドルとして珍しいし意外性もあって、観光的には「有り」なのかもしれませんね。
玉城町の田丸城跡にも寄りました。田丸城は1336年に北畠親房により築城されました。伊勢神宮を抑える戦略的要衝として争奪戦が繰り広げられたものの、1342年に足利尊氏によって落城したそうです。その後、室町時代には伊勢国司となった北畠氏の手によって再建されました。北畠家の庶流で、第5代北畠政郷の四男顕晴が田丸城に入り、田丸氏を名乗りました。その後、田丸城は織田信長の実子である織田信雄の居城として1575年に改築され、三層の天守を備えた近世城郭へと生まれ変わり、織田氏の伊勢支配の中心拠点とまでなりました。しかし、1580年に火災で天守は焼失されたようです。明治維新に伴い、田丸城の建造物はほとんど取り壊されたものの、天守台や石垣、外堀、内堀、堀切、空堀などの遺構は今も整備されて残されており、他所へ移築されていた富士見門、三の丸の奥書院等も再度移築され、往時の面影を偲ばせています。田丸城はその成り立ちから、織豊系の近世城郭と南北朝時代の中世城郭の遺構を併せ持つ興味深い城跡でもあります。築城680年を迎えた翌年の2017年4月6日、続日本100名城(154番)に選定されたそうです。
田丸城は天守のある城として日本で一番古いそうです。冬のライトアップがきれいなので今年も行ってきました。頂上には城っぽいものがあっていい雰囲気でした。昼間は散歩するのにちょうどいい場所です。
昔、伊勢市に住んでいたのですがこんなお城跡地があるとは知りませんでした。敷地の広さと平野を一望できる立地なので城としての機能面は最適な場所ですね!少しでも予算が着いたら是非天守閣の再構築を期待したいですね。ちなみに昔この辺りを走っていたSLも展示されています!
天守の階段が扇状に広がっていて面白い天守台跡だなと感じました。遺構の規模も大きく探索が大変面白かったです。
2023/04✨続日本100名城No.154スタンプ設置場所は役場の前の村山龍平記念館玉城町郷土資料館入ってすぐにありました!駐車場は町役場にとめてから歩きました!
続日本100名城No.154北畠氏が築いた伊勢南朝方の拠点です✨南北朝時代、北畠親房が南朝方の拠点として築いたと伝わります。15世紀後半に城主となった愛洲氏が後に田丸氏を名乗りました。永禄12年(1569)、織田信長が伊勢に侵攻。二男信雄に北畠氏を継がせ、信雄は田丸城を改修して一時本拠としました。元和五年(1619)には紀伊徳川家付家老の久野氏が城主となりました。城は本丸を西寄りに配し、北に北の丸、南に二の丸、東に三の丸を構えて、水堀で囲んでいました。織豊期から江戸時代を通じて使用されたため、さまざまな石積の手法が見学できます。本丸北側には穴蔵(地階)を備えた天守台があります。
天守閣跡は、きれいに残っていました。草刈り、掃除をされている方も見えて、地元の方が大切にされていることが実感できました。桜の開花時にライトアップがされるようです。
名前 |
田丸城 天守跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.2 |
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田丸城天守跡は石垣がとても立派です。のせられた仮説天守は御愛嬌ということで。でも、なんとなく天守閣の雰囲気は感じることができます。とにかく田丸城はいたるところにある石垣の立派さが印象的です。