歴史と竹林に囲まれた空間。
天武天皇御館頓宮碑(尾前神社跡)の特徴
明治41年に合祀された尾前神社跡に位置する歴史的スポットです。
天武天皇御館頓宮碑が見所となる、貴重な史跡です。
平日の雨の日でも静かな雰囲気が楽しめる場所です。
東名阪道南、竹林に位置。石碑、碑周り等綺麗に維持・管理されています。ここから南進すると尾前(おさき)神社燈籠が建立されています。やぶ蚊の大群に襲われ早々に退散しました。説明板が建立されていましたので、引用しご紹介します。「天武天皇御館頓宮碑(てんむてんのうみたちとんぐうのひ)」壬申(じんしん)の乱は、天智天皇(てんちてんのう)亡き後その弟大海人皇子(おおあまのおうじ=天武天皇(てんむてんのう))と、天智の子大友皇子(おおとものおうじ)(弘文(こうぶん)天皇)の間に起った、我が国古代史における最大の内乱である。弘文(こうぶん)元年(672年)6月24日、近江朝廷(おうみちょうてい)(大友方)からの危機を察知した大海人皇子は、わずかな舎人(とねり)と妃(きさき)(後の持統天皇(じとうてんのう))二人の皇子(草壁(くさかべ)・忍壁(おさかべ))を伴い、密かに吉野を発った。名張(なばり)・伊賀(いが)を経て、翌25日鈴鹿(すずか)・河曲(かわの)から夜半には三重の郡家(ぐうけ)に至り、折からの雨に濡(ぬ)れた体を温(あたた)めるため、一軒の家を焼いて暖(だん)をとった。その地がここ御館(みたち)であり、御館の地名の起源(きげん)であると言われている。大海人皇子は、鈴鹿、不破の関を抑え、東国(とうごく)の豪族(ごうぞく)の支援を得て戦いに勝利し、飛鳥浄御原(あすかきよみがはら)で天武天皇(てんむてんのう)として即位(そくい)する。この戦いで劇的な勝利により強大な権力を得た天武天皇は、現人神(あきつかみ)として始めて天皇(てんのう)の称号(しょうごう)得、大化(だいか)の改新(かいしん)以来の中央集権化と律令国家(りつりょうこっか)の建設を推し進めていく。三重の郡家を采女(うねめ)の辺(あた)りとする説もある。しかし、当時この地の辺りには、允恭天皇(いんぎょうてんのう)の皇后押坂大中津姫(こうごうおしさかのおおなかつひめ)のために作られ、その後大化の改新のころまで続いたと思われる、御名代(みなしろ)(刑部(おさかべ))があったとされている。また、貝野遺跡(かいのいせき)・御池古墳群(おいけこふんぐん)など7~8世紀の遺跡の存在、地名の由来や神社・寺院の縁起(えんぎ)を始め、河曲からの距離、三重郡内の位置関係などからしても、この地に三重の郡家があったという説が有力であると考えられる。なお、この石碑とともに浄蓮寺山門前にも、天武天皇御館旧跡(てんむてんのうみたちきゅうせき)の碑が残されている。平成14年3月 三重ふるさと散歩道整備委員会と、なっています。素晴らしいですね!
明治41年に合祀された尾前神社跡の跡地で、現在は天武天皇御館頓宮碑が建てられています。壬申の乱のとき大海人皇子(天武天皇)が、この地で暖を取ったという館の跡地と伝えられています。
| 名前 |
天武天皇御館頓宮碑(尾前神社跡) |
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| ジャンル |
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| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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平日の雨の日に来訪。竹林の中にひっそりとそれはありました。小さな道の傍にへ車を停めて歩いて竹林へ。立派な説明の看板の右側を失礼しま〜す、と中へ足を踏み入れる。石碑の周りには何もありませんが、大きな石が後方に転がっており石碑を建てる時の石なのか、神社の名残か、それとも宮の石垣の名残なのか、、(いや、それはないとは思うが)とロマンを駆り立てながら拝見しました。こうやって保存していただいている地元の方々には頭が下がります。ありがとうございました。