畠山重忠の館跡、歴史を感じる。
菅谷館 本郭跡の特徴
都幾川沿いに位置する菅谷館の広く平らな曲輪が魅力です。
鎌倉時代の有力武士畠山重忠の館跡としての歴史があります。
駐車場から徒歩10分でアクセスできる利便性が好評です。
菅谷館の一番奥にある広く平らな曲輪。かつて畠山重忠の屋敷があったと伝わる。周囲は土塁で囲まれているが特に目立つ建造物などはありません。
都幾川沿いの3台ほど駐めれる駐車場から徒歩10分位。高低差はさほどないので息切れせずに城の中心部に到達できる。館跡となっているが、明らかに戦国期の改変の痕が多く城と言って差し支えない規模がある。また里山の貴重な自然が残り、地元の人たちの憩いの場となっているようだ。
館跡の中で一番高い位置にあるフラットな場所。ここから南側は川に向けて急斜面になっています。遊歩道を南側からぐるりとめぐってくると、結構よい運動になります。
源平の合戦や、その後の鎌倉時代に活躍した鎌倉時代の有力武士「畠山重忠」の館跡とされます。菅谷館については、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』に畠山重忠が北条氏の策略によって命を落とす二俣川(横浜市)に向かう際、「男衾郡菅谷の館を出立する」という記事が見られます。しかし、現在見られる菅谷館跡の姿は300年後の戦国時代に築城された菅谷城であり、発掘調査でも当時の面影は見られません。昭和48年に国の史跡に指定され、平成20年には松山城・小倉城・杉山城と共に「比企城館跡群菅谷館跡」として名称が変更されています。都幾川の断崖に面した平城で、総面積は約13万平方メートル、東側と西側の外堀は自然の深い谷を利用し、都幾川に面した南側は断崖、その上に本郭が位置します。北側に二ノ郭、三ノ郭・西の郭がクモの巣の様に並ぶ輪郭式の縄張りとなっており、更に外側は自然の浸食谷によって何重にも守られています。また、虎口(郭の出入口)付近では、土塁と曲折によってくいちがいを設けるなどの防御の工夫がされています。
源平の合戦や、その後の鎌倉時代に活躍した鎌倉時代の有力武士「畠山重忠」の館跡とされます。菅谷館については、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』に畠山重忠が北条氏の策略によって命を落とす二俣川(横浜市)に向かう際、「男衾郡菅谷の館を出立する」という記事が見られます。しかし、現在見られる菅谷館跡の姿は300年後の戦国時代に築城された菅谷城であり、発掘調査でも当時の面影は見られません。昭和48年に国の史跡に指定され、平成20年には松山城・小倉城・杉山城と共に「比企城館跡群菅谷館跡」として名称が変更されています。都幾川の断崖に面した平城で、総面積は約13万平方メートル、東側と西側の外堀は自然の深い谷を利用し、都幾川に面した南側は断崖、その上に本郭が位置します。北側に二ノ郭、三ノ郭・西の郭がクモの巣の様に並ぶ輪郭式の縄張りとなっており、更に外側は自然の浸食谷によって何重にも守られています。また、虎口(郭の出入口)付近では、土塁と曲折によってくいちがいを設けるなどの防御の工夫がされています。
クルマでGoogleナビを使用、杉山城を見終えて《菅谷館》で検索して嵐山駅方向からナビ通り走ったら遊歩道を案内され嵐山史跡の博物館の駐車場に入り損ねてしまいました。戻るのも面倒なので他に菅谷館に入って行ける所を探して走っていると、都幾川のニ瀬橋の脇を入った所に2〜3台停めれるスペースを発見。ホタルの里の入り口?から菅谷館本郭跡を目指して原生林を歩きましたがこれが結果オーライ。当時の時代の人が菅谷館を訪れる気分に浸れました。本郭跡は入り口正面の土塁と整然と並んでいる大きなけやきの木が見事でした。
広く平らな曲輪だが、時節柄もあろうが草がボーボーでにノ郭とは雲泥の差であった。よってよくわからんちー、だったな。
| 名前 |
菅谷館 本郭跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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☆三方を高い土塁に囲まれた本郭、東西約150m×南北約60mの長方形。本郭は幅が広い堀に5mはある土塁、二ノ丸からの虎口も凄く狭く、出枡形土塁も設けられ「横矢掛」出来る防御堅固な縄張⚔️本丸=中世の単郭式城館の様式、地元の伝承では「畠山重忠」館跡、東側の土塁が一部途切れ「生門跡」との伝承も、未だ発掘調査されず詳細不明、発掘調査して欲しい、何が出るだろう😄