茂原の青い光、確かな風景。
ガス灯の特徴
青い光で明滅する有機交流電燈の魅力が感じられる場所です。
宮沢賢治の詩が息づく風景に心が惹かれます。
その歴史的な風情に、訪れる人々が集います。
わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈の一つの青い証明です風景や皆と一緒にせはしくせはしく明滅しながらいかにも確かに灯りつづける因果交流電燈の一つの青い証明です宮沢賢治春と修羅 「序」より。
茂原では古くから,自噴する天然ガスの存在が知られていた。例えば,次の様な言い伝えがある。「川べりで釣りを楽しんでいた男がキセルの火を投げた。ところが川の水が赤い炎を出してメラメラ燃え出した。男は腰を抜かさんばかりに驚いて逃げ帰った。狐の仕わざということになり、其の後近寄るものがなくなった」また,『茂原町誌稿』には,明治十七~八年頃の下記の様な記録がある。「安川寛三郎なる人物が干魃に備えて,茂原毛無塚の水田にて井戸を掘った。すると,茶褐色が水が噴き出し,その水溜まりが泡立ったという。これを見た人々は「醤油水」「泡水」と呼び,またキセルの火を落とす水が燃え出したことから,「燃井戸」と呼称した。」(要約)しかしながら,いずれにおいても,天然ガスは,狐火の様な怪異の類いとして認識されており,「天然ガスを生活に利用する」という発想にはついぞ至らなかった。これを生活に利用し始めるのは,ガス燈の存在が一般化した明治四十年以降である。まず,明治三十六年五月,県立農学校(駅前の小学校の辺りにあった)が灌漑用水源を得る目的で校内に井戸を掘った。すると,醤油水が出てしまい,これは農業に適さないものとして放置されていた。そのところ,林太喜一郎(茂原の資産家)が,当該学校の隣に住んでいることを奇禍として,その天然ガスを自宅に引き入れ,燈火等として個人利用した。これが明治四十年頃のことで,茂原の天然ガスの利用の嚆矢である。翌年,上記の農学校の天然ガスの利用状況が板垣恭太郎なる人物の目に留まった。彼は全国を回って火山や天然ガスの研究を行っていた伊豆出身の技術屋であったが,茂原に眠る天然ガスの有用性にいち早く気が付き,これを町の発展のために利用することを企図する。明治四十二年三月,「茂原は天然ガスの宝庫であり、一灯につき一晩わずか一銭で供給できる」と詠い,茂原上永吉の眼科医で当地最大の名望家であった千葉弥次馬(千葉天夢)と通じて,その私有地に「燃井戸」を掘った。そして,板垣は,自身の技術屋としての知識を活かし,天然ガスを利用する装置を作り上げ,千葉弥次馬の自宅,病院,近隣小学校及び町役場にこれを供給するに至る。この事実は,たちまちに町の人々にも知られるところとなり,ワレもワレもと「燃井戸」の掘削ブームが沸き起こった。特に,田中兼次郎らによって結成された「茂原昌平町天然瓦斯組合」が掘った燃井戸は,70名以上の組合員に天然ガスを供給し,また多くの街燈を設置した。「房総東線がまだ私設鉄道であった時代、今の茂原駅の照明は全部ガス灯であった」「ランプ頼りの夜行列車の客は、「茂原に着くと、まるで真昼の様だ」と驚きの声を上げた」巷間にこの様な話があるが,これはまさにこの頃の話である。つまり,茂原駅のガス燈の歴史は明治末期に遡る。現在のガス燈は,大多喜天然天然瓦斯株式会社が平成四年に寄贈したものではあるが,当時の様子を想像させるに足るものである。なお,こういった「燃井戸」は,大正十二年に起きた関東大震災によって,その殆どが失われる。その後,大多喜天然瓦斯株式会社という巨大資本が茂原に進出したため,こういった自前の天然ガスを利用する装置は再建されず,ブームは下火となった。当時の様子を今に伝えるものは,昌平町稲荷神社の境内にある,天然ガスの貯蓄タンクの煉瓦基礎のみである。
| 名前 |
ガス灯 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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なんと!駅前ロータリーに在るこの瓦斯灯って当時物だったんだ……大多喜ガスの寄贈だとか、いずれ貴重な遺産です。