神流川合戦の地で歴史を感じる。
毘沙吐の特徴
埼玉県の最北端に位置する史跡、天正10年の古戦場です。
上里町指定文化財として歴史的価値が高く、多くの訪問者を魅了しています。
自然の中にひっそりと佇む、静寂な雰囲気の場所です。
埼玉県のほとんど最北端。
天正10年(1582)神流川合戦が行われた古戦場として、上里町指定文化財に史跡として登録されています。埼玉県児玉郡上里町毘沙吐(ビシャド)と言う、毘沙門天の様な大層な名前の地域で(添付写真で、土手の道路の下、右手のいわゆる河川敷です)、ちなみに現在の人口は0人。埼玉県最北端の地、上里町で、そのなかで最北端のエリアです。毘沙吐村は戦国時代1561年に発し、江戸時代末期1850年に全村移住して、完全な河川敷となった。自動車も無く、人馬、船が交通の手段であった時代、こんな洪水被害の多発する地域が、歴史の要地として人を住まわせたのには訳があるはずです。もともと毘沙吐は交通の要所であった。中山道69次の中でも最後につくられた宿場町・第11番宿・新町宿が加賀前田藩の肝いりで出来、中山道として神流川の渡しが通ったのは1653年の事であり、それ以前は、神流川渡しより1km位手前(上り方面)の上里町金久保で、西へ下っていた中山道ルートを北へ右折し、上里町黛を通り毘沙吐村の藤ノ木渡し(近くに藤の木が多かったとの事)を渡り、玉村・経由で倉賀野・高崎へと至る、三国道が主要街道であった。つまり、今でこそ毘沙吐は北流する神流川の西岸(ちなみに神流川の東岸は金久保)、西流する烏川の南岸と北岸の飛び地と言う史跡的地取りですが、烏川と神流川の合流点と言う事で、氾濫する川筋が現在とは多少変動がありますが、この村が繁栄した戦国から江戸時代には(武蔵国賀美郡毘沙吐村)、神流川の東岸、烏川の南岸に位置して面積的にも位置的にも現在の上里町金久保エリアであり、三国街道の渡し場、藤ノ木渡しと言う武蔵国にとって人、物、金が集まる要所であった訳です。毘沙吐村の全村移住(参考資料より抜粋)弘化三年(1846)の大洪水で壊滅状態となり、神流川の西、新町下河原に村を移した。この年の6月中旬から7月上旬にかけて大雨が降り続き、実に66%の土地が流失し、神流川に面した家25軒、烏川通りの家2軒が濁流に呑まれました。その年の10月、村民は神流川対岸の笛木新町字下河原への全村移住を決意します。笛木新町側との交渉や、代官への願書提出を経て、岩鼻陣屋から正式に移住許可が出たのは、嘉永元年(1848)のことでした。そしてまず龍光寺と諏訪神社を遷座し、新しい土地での平安な暮らしを祈ったのです。(現在の高崎市新町には旧中山道沿いにある諏訪神社と、この遷座されてきた諏訪神社で、2つの諏訪神社があります)これら、神流川・毘沙吐村地域の洪水被害の記録として、神流川の土手に「矢田提塘之碑」が立っています。
| 名前 |
毘沙吐 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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位置情報が表示されている該当箇所までなんとか行き着いて写真を撮りました✨草木しかありませんでしたが。