大内政弘公の歴史に触れる!
大内政弘公の墓の特徴
大内政弘公の墓には師成親王の墓もある。
山口市上宇野令に位置する歴史的な史跡です。
29代当主の大内政弘公にまつわる場所である。
大内政弘とは?大内政弘は大内氏第29代当主で、応仁・文明の乱では山名宗全と縁戚関係にあったこともあり、西軍の主力として活躍しました。大乱終結後は多くの大名が分国に戻り、国内の統治や発展に力を注いだのですが、大内氏も政弘帰国後は分国内の統治を強化し、大内氏壁書のような分国法を多く制定したようです。アクセスは、ダムを渡ってしばらく道なりに進むと少し広い場所があるので、そこから歩いて墓所に向かいます。草木が多く、あまり整備されているようには見えなかったので、行く際は気を付けましょう。サンダルやハイヒールなどで行くのはオススメできません。あまり急ではありませんが、少し道を上っていくと件の墓所が見えます。周囲にはほかに施設も見当たりません。資料によっては、法泉寺にあると書かれていることもありますが、法泉寺跡は山の下の方にあります。もしかしたら、昔の法泉寺の敷地はもっと広く、この場所も法泉寺の一部だったのかもしれませんが、はっきりしたことはわかりません。
奥の柳の水に行かれる方がいるのならもう少し整備をしてもいいと思う。
大内政弘公は、大内氏29代の当主です。応仁の乱(1467〜1478年)では、西軍の山名宗全に味方するため大軍を率いて上京しました。政弘公は、勇猛な武将でありながら文化面でも優れた人物で大内文化は盛期を迎えました。応仁の乱により焼け野原になった京都からたくさんの文化人が政弘公をたより山口を訪れるようになりました。画僧雪舟もその一人です。菩提寺は法泉寺です。今はなにも残っていませんが大きなお寺だったようです。ダムの下の「法泉寺のシンパク」のところが山門で、このお墓はダムの上なので広大な境内をもつお寺だったと想像できます。なお後年、義隆公が陶隆房(晴賢)に追われ長門の大寧寺に逃げるとき、この道を通ったようです。今では「柳の水」より奥は、とても歩ける状態ではないように見えますが、当時は吉敷の凌雲寺(義興公の菩提寺)あたりに通じる道がありました。
大内政弘は大内義興の父。大内家29代目当主。雪舟に常栄寺の庭園を作らせたり、文化面でも活躍した。大昔、このあたりに法泉寺があったが、今は何もない。道路は草ぼうぼうで車も1台通る程度。立看板から1メートル歩くと墓がある。きちんと整備をしてほしい。
| 名前 |
大内政弘公の墓 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.2 |
| 住所 |
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