住吉大社参道の歴史を感じる石灯籠。
住友燈籠の記の特徴
住友家が代々寄進した石燈籠は歴史的な価値があります。
昔の海運安全を願った大社の参道沿いに立ち並んでいます。
南海電鉄住吉大社駅から続く石燈籠は圧巻の景観です。
厄除け御参りの帰り。
古代より住吉大社の周りの土地は「長峡(ながせ)」と呼ばれていた。今の国道26号線のすぐ西側は海であったので、住吉大社の大鳥居から海岸までの道は、「汐掛道」と呼ばれていた。現在ここには14基の灯籠が立っているが、住友家が代々寄進して来たものである。もっとも古いものは元文2年6月(1737年)に、5代目住友吉左衛門・本名住友友昌がした物である。殆どの灯籠は江戸時代に寄進されたが、最も新しい物は昭和4年8月(1929年)に16代目住友吉左衛門・本名住友友成の寄進である。全てで33基あるのだが、汐掛道には14基存在している。江戸時代の大阪は、日本における銅精錬・銅貿易の中心地であり、その中核をなしたのが住友家であった。銅は主に伊予(愛媛県)の別子銅山から海路で鉱石が運ばれ、大阪で精錬され銭や金銀への混ぜ物として使われて、日本経済を支えてきた。また住友家も精錬し銅座に運び巨額の富を成し、現在大銀行である三井住友銀行の基礎を成している。燈籠は時間を経て場所を移動されることもあり、地元住民の意向を受けて年代順に移転配置されている。中には頼山陽(漢詩人・文人)の文字を刻んだものもあり、また明治28年に「藤の家主人(翻訳家、新聞記者の加藤紫芳)」による名所案内『大阪けんぶつ』(矢嶋誠進堂)が描写した官幣大社住吉神社をめぐる景観にも挿絵のように描かれている。神社境内に散在していたが、燈籠は時間を経て場所を移動されることも度々であった。地元住民の意向を受けて年代順に、汐掛道のサイドに年代別に整理移転配置されている。
江戸時代から昭和の初めまで住友家によって代々寄進されてきた石燈籠。長い年月の中で一部が移築されたりしたそうですが、それを年代順に移設再配置されたそうです。南海電車の高架下から住吉大社へ続く参道に並んだ燈籠は、駅からの参拝者を誘うかのように静かに佇んでいます。
旧財閥住友家が海運の安全を願って住吉大社の参道に石灯籠を寄進したもので、高灯籠より南海電車の住吉大社駅前を過ぎ大社の参道まで続くもので当時の住友財閥の凄さを再認識する後世に残る立派な石灯籠です。
石燈籠が、南海電鉄本線住吉大社駅のガード下を潜って、住吉大社まで50mほどの長さの道の両側に並んでいます。道路や南海電鉄ガード下であるにも関わらず、戦後から今に至る駅前再開発を潜り抜け、こういったものが残されていることは確かに凄いことだと思います。住吉公園から住吉大社へ向かう道の、歴史の重みを感じました。
| 名前 |
住友燈籠の記 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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住友家による地域貢献2025年2月上旬に住吉大社参拝の際に発見しました。書かれているのは——————————————————————-住友燈籠の記古くからこの地を長峡と称し、海辺へ続くこの道は汐掛道と呼ばれていた。ここに並ぶ十四基の燈籠を始め、公園内の住友家の燈籠は、江戸時代から昭和初年にかけ、住吉大社正面参道である汐掛道に添って代々奉献されてきたものである。江戸時代の大阪は日本における銅精錬・銅貿易の中心地であり、その中核をなしたのが住友家であった。銅は主に伊予(愛媛県)の別子銅山から海路運ばれ、大阪で精錬され、日本の経済を支えていた。この燈籠も海上安全と家業の繁栄を願って寄進されたが、長い年月を経て、一部は移築され、また周辺の道路事情も変わったため、地元住民の意向を受け、新たな考証に基づきここに年代順に移転再配置した。天下の台所「大坂」を偲ぶ貴重な歴史遺産として、今後とも長く守り伝えて行かなければならない。平成六年六月財団法人住吉名勝保存会——————————————————————とあり再配置しているだけあり、近代的な歩道に違和感なく設置されていました。