意宇川沿いの出雲国庁跡。
出雲国府跡の特徴
六所神社に隣接する歴史が息づく出雲国府跡です。
繁栄を誇った出雲国庁の礎石が残る貴重な遺跡。
意宇川沿いで発見された文化発展の名残を感じる場所です。
六所神社に隣接する土地で発掘調査が進められていました。また六所神社右手には「出雲国府跡」のパンフレットが雨避けされた箱の中に入れてあり、持ち帰ることができました。
意宇六社巡りで六所神社に参る途中、道を間違えて出会えた場所。ここは、2000年前日本一の大都会で、1300年前出雲風土記をまとめた場所かと思うと感慨深い。サイクリングには絶好の場所(私は自転車苦手ですが)
出雲国庁の場所が特定されたのは昭和37年(1962)。江戸時代の大草村(現在の松江市)検地帳に「こくてう」の字名が発見されたのがきっかけだった。それまで「出雲国風土記」の記述から意宇平野のどこかであることは分かっていたが、この発見から発掘が行われ場所が確定した。考古学者・坪井清足氏の揮毫による「こくてうの地」の碑が建っている。
松江市の郊外、田園風景の中にある史跡ですね。定期的に草刈り等手入れもされていますね。
学校で習う歴史は、平城京あたりからですが、それ以前にこの地を中心に文化が発展していたようで、その名残が礎石となって残っています。大陸から文化を取り入れる窓口だったのかもしれません。
学校で習う歴史は、平城京あたりからですが、それ以前にこの地を中心に文化が発展していたようで、その名残が礎石となって残っています。大陸から文化を取り入れる窓口だったのかもしれません。
樹木観察にも良いところです。松江の公園はどこもですが、もう少し樹木名の表示が整備されたら良いと思います。
出雲国内で松江市周辺と出雲市周辺に数多くの古代遺跡が分布している。古代から現代にいたるまで出雲の2大中心地がこれらの2市である。ところで、出雲王の墳墓は出雲市野西谷墳墓群にあり、最後の出雲王たる大国主命は出雲大社に葬られている。つまり古墳時代に入るまでは出雲国の中心は出雲の方にあったのだ。しかし、出雲国府は松江の方に設置された。なぜ出雲国の中心が移ったのか、いろいろ妄想が湧いてくる。
『風土記』の書かれたころの出雲の中心は、八雲山北北東の意宇川沿いであり、ここに出雲国庁跡も見つかっています。しかし、それ以前に、出雲でまず稲作文化が開花するのは八雲山のほぼ真北十数キロにある朝酌川周辺でした。
名前 |
出雲国府跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0852-22-5880 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.9 |
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国府跡だそうです。