歴史を感じる隠岐の地、上皇の御火葬塚。
後鳥羽天皇御火葬塚(隠岐海士町陵)の特徴
承久の乱で敗れた後鳥羽上皇が崩御した歴史的な場所です。
ここは宮内庁管轄の重要な史跡で、厳かな雰囲気が漂います。
新緑に包まれた御火葬塚は、美しくしっかりと守られています。
近江へ帰る許六に送った芭蕉のことば後鳥羽上皇の書かせ給ひしものにも、「これら(俊成と西行)は歌にまことありて、しかも悲しびを添ふる」とのたまひ侍りしとかや。さればこの御言葉を力として、その細き一筋をたどり失ふる事なかれ。なお、「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」彦根藩士、森川許六は、佐々木高綱を遠祖とする。
厳かな雰囲気です。身が引き締まります。宮内庁管轄で中まで入れません。
後鳥羽上皇が60歳で亡くなられ、荼毘(だび)に付された御火葬塚です。後鳥羽上皇は、承久の乱によって隠岐へ島流しされました。承久の乱は、1221年に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱です。近くに、後鳥羽上皇行在所跡(あんざいしょあと)があります。後鳥羽上皇が隠岐に島流しにあい、19年間暮らした場所です。
歴史の教科書を思い出すとしびれますね。ここに流されたんですね。雰囲気良いですが、京都に比べるとさぞ格差を感じだでしょうね。素晴らしい歴史遺産なんで、もう少し工夫したら、観光客来ると思います。
宮内庁管轄の立ち入り禁止で何もわからない。
承久の乱により隠岐へ配流になった後鳥羽天皇は、在島19年後の延応元年(1240年)2月、60歳で崩御されました。遺骨の大部分は今の御火葬塚に納められましたが、明治6年、明治天皇の思し召しにより、大阪の水無瀬神宮に合祀されました。翌7年、祠殿は取り壊され山陵はその後、第82代後鳥羽天皇御火葬塚として、宮内庁で管理されています。
1221年の承久の乱に敗れて隠岐島に配流され、この地で崩御し火葬された。
この地で生涯を終えた、上皇のことがしのべるところです。資料館も見たかった。
新緑の御火葬塚。行在所裏口に咲くナンジャモンジャの木。
名前 |
後鳥羽天皇御火葬塚(隠岐海士町陵) |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
4.0 |
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大河ドラマで注目の後鳥羽上皇が承久の変で敗れて流された隠岐の地で崩御して火葬にふされた場所で宮内庁の所管、なお天皇陵は京都大原の大原陵です。